やらぬ後悔より、やる後悔—関東大震災から100年目
1923年9月1日に発生した関東大震災から100年。関東大震災は経験していないが、1995年の阪神・淡路大震災をエネルギー事業者として大阪で、2011年の東日本大震災を東京で経験した
その日に、なにがおこり、そのあと人々はどう動き、それが社会にどういう影響を与えたのか?
大震災がその時代にあったということは、知っている。しかしその大震災の中身、意味、記憶、影響の本質を知る人は減って、おなじ失敗を繰り返す
1 それが、社会にどういうインパクトがあったか?
関東大震災から、日本はどうなった?
1923年の関東大震災は死者・行方不明105千人、家屋の全壊11万棟、全焼21万棟という大災害となり、東京と神奈川の建物は損壊して、関東から大阪に人が移動して、大阪は日本一の人口が多い都市となった
阪神・淡路大震災から、日本はどうなった?
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は死者6,433人、家屋の全壊10万戸をはじめ、戦後最大の惨禍となった。重工業都市でもあった神戸の機能を喪失させ、阪神高速道路の高架橋635mもの倒壊や鉄道をはじめとする近畿の交通・物流・情報・エネルギーネットワーク網を寸断させ、人流・物流が滞った
コンテナ取扱量世界6位で国内1位だった国際貿易港神戸港の被害は甚大で、コンテナ取扱量は半減した。国際貿易におけるサプライチェーンへの影響を与えたことが日本産業・経済に影響を与え、日本の失われた30年の原因のひとつとなった。つまり阪神・淡路大震災は神戸だけの被害・損害ではなく、有機的に繋がる都市・産業機能のネットワーク構造を崩して、関西経済にとって大きな影響を与えた
東日本大震災から、どうなった?
2011年3月11日の東日本大震災は、死者と行方不明25,949人、津波により冠水した面積は561㎢に及んだ。津波は福島第一原子力発電所事故を引きおこしエネルギー危機を招き、その影響は今も現在進行形である
震災で壊れたモノを直す、眼に見えていたモノを元に戻すという復旧活動や復興活動に、ともすれば注目されがちである。地域にとって、目に見えるモノだけでなく、風土や記憶や文化など目に見えないコトも大事である。しかしそれを再起動させようとする人は多くない
震災が起こらないようにすることはできないが、社会への影響を小さくすることは可能である。震災の被害・損害を軽微にすることで、震災が引きおこす社会的影響を変えることができる。そのためにお金だけでなく、人々の意識・決断・行動で未来を変えることができることも多い
2 あの日、なにがおこったのか?
阪神・淡路大震災、その日、なにがおこったのか?
28年前の大地震の翌朝、大阪の天保山から荷物運搬船に乗って、海から見た神戸の風景は忘れられない。震災当日に大阪の本社で震災損害状況を情報収集をしていたが、全体像を掴むために船に乗って神戸に向かった
大都市直下型地震は、神戸や芦屋、西宮など阪神エリアの都市の建物を損壊させ、火事を起こし、道路、鉄道、通信・エネルギーネットワークなど都市インフラを破綻させ、生活、都市、産業を機能停止に陥らせた。ここからの復旧、復興がとてつもない時間とコストがかかることに、その段階は分かっていなかった
東日本大震災、その日、なにがおこったのか?
12年前の東日本大震災発生の翌朝の新橋駅周辺の風景も、忘れられない。大地震で交通網が混乱したため、自宅に帰ることのできなかった多くの帰宅困難者が、寒空の下、座り込んでいた。地震発生日は帰路に向かう人々が道路にあふれ、車両がごった返した。都心のいたるところ道路は大渋滞となり、通常ならば10分で移動できた距離が3時間かかった。東京の機能はその日停止した
東日本大震災はマグニチュード9.0、最大震度7、津波は高さ最大21.1mにもなり、街に、学校に、田畑に、原子力発電所や火力発電所やガス製造所や石油コンビナートに襲いかかった
まだ肌寒い東北地方の3月で、エネルギーが止まり、複合的な被害をおこしかねた。そんななか仙台を救ったのが、奥羽山脈を隔てた日本海側、新潟の日本産天然ガスだった。新潟から仙台へ、山を越えて設置されたガスパイプライン。ガスパイプラインの多重化によって救われた
先を見たリダンダンシーが
多くの生命を守った
難病の子どもたちを抱える仙台のある病院では、東北電力からの本線・予備線が遮断して停電した。救急患者は普段の2~3倍になり、食事やミルク・おむつの確保にも苦労した。東北電力の電気が停電するなか、ガスにて発電を行って手術に必要な電力を供給して、震災当日、臨時手術2件が行えた
また大幹線であるJR東日本東北本線が寸断していたことから、これまた新潟から支線区を経由した山越えルートを使い、急遽走らせた臨時石油貨物列車が太平洋の街々を救った
様々なリダンダンシーが東北を救った
3. それから、どうなった
福島原発事故に伴う電力供給の逼迫により、震災4日目の3月15日から、関東地方で計画停電が始まった。断続的に余震が続くなかでの計画停電は、東日本大震災直後から2週間、地域単位の停電が行われ、都市・産業機能にダメージを与えた。関東で、なにがおこったのか?
しかし東京の夜が真っ暗ななか、六本木ヒルズでは3月18日~4月30日まで、他のビルが計画停電で苦しむなかでも自家発電システムで機能を継続させ、さらに東京電力に4,000kWを送電した
森ビルが六本木ヒルズに込めた「万が一のときに逃げ込める街にする」いう想いが有事に叶った
一方、関東のある病院は、計画停電のなか、照明は消え、電気錠の鍵が開き、セキュリティに苦慮した。エレベーターが動かないため、食事は300食を手渡しのリレーで配膳した。非常用発電機はあったが、軽油が手に入らなかったため発電できなかった。乾電池は1~2日でなくなり調達できなかった
このように事前の備えの違いによって、有事に大きな差が生じた。準備していた企業と準備しなかった企業の事前の決断が震災現場の明暗を分けた
4 流れは変わりかけたが、元に戻った
もしも震災が起きたら、エネルギーが来なくなる。病院が機能しなくなり人々の生命が救えない。電車が動かない、モノを作れない、産業が回らなくなり、経済が止まる。東日本大震災を自分事で考えた人、企業のなかで、生命を守るため・事業を守るために、生活・事業において必要な重要な機能を守るために動きだした。こう変わった
エネルギーの価値観が変わった
それまでのエネルギーについての価値観は「経済性」が中心。つまり安いことが大事。「環境性」は少し考慮するが、「安全・事業継続性」は有事がおこったら考えたらいいという価値観が支配的だった。つまり
「いつか」「もしも」は、後回しにしてきた
それが311を契機に、「安全・事業継続性」の意識が高まり、経済性と環境性との全体最適をめざすようになった。こういう思考回路となった
東日本大震災クラスの地震が起こったら
我々はどうなるのだろうか?
自治体・大学・病院・企業・工場などが自ら問いかけ、自らの価値と使命を見つめなおし、なすべきことを考え、その対策をすすめた。それくらいインパクトのある惨禍だった
生命を守るために、組織の事業を守るために、有事に何がどうなるか、どう行動すべきかを考え、それに備え、実践している人、企業が増えだしたが
喉元過ぎれば熱さを忘れる
その日を忘れだしている
5.これから、どうする?ーやらぬ後悔より、やる後悔
関東大震災から100年。国は防災・減災、国土強靭化を進めている。社会・産業・生活を横断的にレジリエンス力を高め、有事に備えているが、東日本大震災から12年経ち、前提条件である社会はがらっと変わっている。関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災時に社会システムが変わっている
情報化と電化シフトが
12年前の社会構造を変えている
人口・施設・日本の管理機能の東京への一極集中はより進み、IT化・DX化の加速は情報ネットワークを拡充させ、生命・事業を持続継続するための重要エネルギー負荷は増えている。有事の影響構造、影響度合いは、東日本大震災の被害と比べようがない
いつか・もしもは、後回しにしようとするが
いつか・もしもは、おこる
有事は、いつか、おこる
課題は、明確である。有事がおこったらどんな状況になるのかは、明確である。東京一極集中など、ひとつの場所に極度にあらゆるものモノ・コトを集中するのではなく、施設・機能を分散させる。これはやろうとおもえばできる。かつてはそうだったから
次に、有事がおこったら、どうなるのかを想像する
生命を守るため、事業を守るために、都市・地域を守るために、なにを残してなにを捨てるかを決める。平時にも有事にもそれが使える仕組みを構築して、有事に備える。それが、わたしたちの現在においても後世のためにもすべき、大切なレジリエンスである。先を見て、やるかやらないかで、未来は変わる
昔から、日本人はこう言ってきた
後悔先にたたず
やらぬ後悔より、やる後悔