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昔話では、なぜ独身男の家に美しい娘がやってくるのか?

歴史というと大体政治や権力、誰が天下を取ったとかの話ばかりが残っていますが、それは仕方ないことで、権力を取った者が歴史書を作るからです。ある意味、歴史とは権力闘争史といえるでしょう。

とはいえ、何も権力争いをしている貴族や武士だけが歴史上の登場人物ではなく、むしろそんなのは少数派で、大多数の庶民の歴史というものもありました。

が、残念ながら、そうした大昔の庶民の暮らしぶりについては、残っている史料が少ない。そもそも庶民が全員文字の読み書きができたわけでもないので史料として残っていないわけです。

そうした可視化されない庶民の生活を垣間見られるのが「昔話」です。
昔話というものは、口伝されてきたもので、だからこそ地方によって同じ話でもストーリーが違ってしまっていたりもするわけですが、それは伝言ゲームで途中で内容が変わってしまうようなもので、仕方ない事、人は他の誰かに喋る時は、盛ったりするものだからです。

さて、昨今少子化だ、未婚化だ、と騒がしいですが、これは何も今に始まったことではありません。むしろ、明治民法施行後から1980年代までの約100年間だけが皆婚であって。むしろ全体の歴史からいえば、「必ずしも全員が結婚していた時代の方が異常」というのが本当のところです。

それを裏付ける数的史料もありますが、「昔話」からも垣間見られます。

なぜなら、昔話といわれるものの中には、「独身の男の家に美しい女性が訪ねてくる」というエピソードが多い。
有名なところでは「鶴の恩返し」がそうです。
異類婚譚と呼ばれるもので、人間ではない別の動物と結婚するというもの。

鶴以外にも、蛙女房、蛇女房、狐女房、猫女房、蜘蛛女房、魚女房、蛤女房、亀女房(「浦島太郎」の乙姫は亀です)、などがある。動物以外にも、雪女とか山姥とか河童などの妖怪パターンもある。

そして、そのいずれもが大体悲しい「別離」というエンディングを迎える。

あまり知られていない昔話として「月見草の嫁」という話がある。まんが日本昔話でも紹介されたものです。

簡単なストーリーは以下である。

昔ある所に、独り者の馬子(馬の世話をする者)が住んでいました。馬子は、馬に食べさせる草を刈るために、毎朝いい声で歌いながら山道を行き来していました。
そんなある秋の夜、若い女が馬子の家を訪ねてきて「馬小屋でいいから泊めてくれ」と言いました。馬子は快く馬小屋を使わせ、翌朝になって娘と対面すると、とても美しい娘でありました。
この娘は、そのままもう一晩泊まり、やがて朝から晩まで馬子の家の事や食事の世話などこまごまとやってくれました。娘はそのまま馬子の嫁になり、二人は仲良く暮らし始めました。しかし、やがて冬が近づく頃になると、娘は体が弱って寝込むことが多くなりました。
そんな娘を心配しながらも、馬子は今日も馬の草刈りに山へ入っていました。家に帰って刈ってきた草を見ると、この季節には珍しい、月見草が一本混じっていました。この月見草の花の香りは、娘と同じいい香りがしました。
馬子は、寝こんてしまっている娘に月見草を見せて元気にしてあげようと、家の中に入っていきました。ところが、娘の姿はもうどこにもありませんでした。
実は、娘は、いい声で歌う馬子に恋をした月見草の精だったのです。馬子が残った月見草を刈り取った事で、娘の命も尽きてしまいました。
娘がいなくなったことに驚き、悲しむ馬子の目の前に、一瞬だけ姿を現した娘は、「お嫁さんにしてくれてありがとう」とお礼を言って、スッと消えてしまいました。

切ない話ですね。
動物だけではなく、植物であるパターンもあるのです。

このように、大体独身の一人暮らしで(親族がいない)、中年でもう嫁の来てもない状態のところに、ある日突然美しい娘がやってきて、男の嫁になるが、そのしあわせな日々も束の間、気が付いたらまた一人に戻っていたというパターンである。物語によっては、子どもができる場合もあるが…。

これは結局「幻」のお話なのです。別の言い方をすれば「夢オチ」です。すべて夢だったんかい、と。

実体としては、娘も来てはいないし、結婚もしていない。いなくなってしまったのではなく、最初からいない。いたような夢を一瞬見ただけという話なんでしょう。

それくらい昔も、結婚相手がいないまま生涯独身の男は少なくなく、せめてもの慰めとして、そういう「地道に仕事していればいつか娘がやってくるかもしれないよ」というフィクションが生れていったのでしょう。

「どの道、いなくなるなら、なんで登場するんだ」という野暮なことは言わないでください。

これもまたひとつの「接続するコミュニティ」のひとつでもあります。ほんの一瞬、訪ねてきた娘と接触することによって、独身の男には生活の張りが出て、その娘のために仕事を頑張るというモチベーションもはじめて感じられて、長い事誰とも喋っていなかったことも解消され、忘れていた笑顔も取り戻したかもしれない。

結局、娘とは永遠の別れをすることになるのだが、その刹那の接続が独身の男の内面に何らかの化学反応を起こしたことも間違いないでしょう。
娘が来なかった日常と、娘がいなくなった日常は、たとえ同じ一人ぼっちでも違った景色になっているはずです。
そして、もうひとつ、人生とは永遠に続くものなんてないのだという無常観もその根底にあると思います。

でなければ、ただただ悲しいエンディングのこうした類似のお話がこんなにたくさん語り継がれているはずもない。
人間ではなく、動物や植物という自然に生きる者が対象となっているのも、「自然と共に生きる」「自然のたくさんの命の消え行く様を見つめながら生きる」という日本人の精神が反映したものともいえるかもしれません。


日本の昔話のストーリーから日本人の心理に踏み込んだ河合隼雄氏の本はおすすめです。知ってたはずの昔話にはこういう視点が隠されていたのかと思うでしょう。




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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。