孤独担当大臣は不要。孤独=悪という考え方こそ見直すべき【コラム04】
イギリスで孤独担当大臣なるものが創設されるというニュース依頼、僕のところにもいろんなメディアから「日本にも孤独担当大臣は必要か?」というテーマで取材依頼がきています。
http://www.afpbb.com/articles/-/3158930
以前、週刊プレイボーイ誌にもその内容が載りました。
つい先日毎日新聞からも取材依頼があり、その記事が夕刊の特集として掲載されました。その内容は、以下のヤフーニュースでも公開され、「孤独大国」という言葉がツイッターのトレンド入りするほど話題になりました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180215-00000011-mai-soci
孤独担当大臣ね…。
結論からいうと、「そんなものは不要」としか言いようがありません。仮に、孤独の対策が必要だとしても、大臣ポストを作ったくらいで解決できる話じゃないことは、少子化担当大臣で証明済みです。
確かに、配偶者と離別や死別をした人の病気死亡率や自殺率は高いですし、孤独が寿命に影響を与える因子になり得るという調査結果もありますから、相関はあるんでしょう。ですが、相関があっても因果があるとは断定できません。「孤独だから死にやすい」なんて短絡的に決めつけられるはずがないんです。その理屈って「40歳過ぎて未婚の人間は人間的な欠陥がある」というものくらい偏見に満ちたものです。
何がなんでも「孤独=悪」ととらえたがるステレオタイプの人たちがいるようですが、いい加減そんなバイアスのかかった考え方から脱却すべきでしょう。
孤独じゃない状態とは、結婚をしたり、家族と一緒にいる状態であり、それこそが正義である。だから、一人でいる状態は異常であり、悪であり、駆逐しなければいけないという理屈になるんでしょうが、「一人でいる状態が悪いから駆逐すべし」というロジックはいかがなものでしょう。それは「働き方改革」が時間短縮ばかりに気を取られて迷走したのと同じ轍を踏むことになります。それはやがて、「仕事も勉強もみんなで協力して行うのが正しい」という話に発展し、「一人でいたい」「一人でやりたい」という人たちを苦痛に追い込むのです。そうした同調圧力がイジメの芽になり、異端扱いや排除の行動を生み出します。そういう危険な考え方です。
そもそも、孤独と孤立とを混同してはいけないと思います。
取材にも以下のように答えています。
「英語には『孤独』を意味する言葉に『ロンリネス』と、『ソリチュード』の二つがあります。英国の担当相は『ロンリネス』の対策にあたります。一方、『ソリチュード』は、自ら選択して独りを楽しむというポジティブな意味を含みます。日本ではこの二つが混同されがちです」
一人暮らししている人は全員孤独に苦しんでいるんでしょうか?そんなことはありません。
生涯未婚の人は誰ともつながりのない人なんでしょうか?そんなこともないんです。
死後何日かたって発見される孤独死認定された人は、生きている間全員不幸だったでしょうか?決めつけられません。
一人暮らしや未婚、または離婚による独身など状態としては孤独と分類されるような人たちが、24時間365日誰とも接しないで寂しさに苦しみながら暮らしているという決めつけこそ乱暴です。人それぞれ。誰もがみんなと食事したいわけじゃないし、誰もが灯りのついてない家に帰ることをさびしいと思うわけじゃないんです。
問題なのは、「物理的孤独」より「心理的孤立」の方です。家族がいても、職場や学校にいても、そうした心理的孤立を抱えている人はたくさんいます。むしろ妻も子もいるけど家に居場所のない父親の方がよっぽど孤立感を味わっているんじゃないですか?いじめにあいながら、先生にも親にも救いを得られない子どもだって孤立感を感じているかもしれない。会社に属していながら、何のやりがいも与えられず腐っているサラリーマンも同様です。母子家庭で貧困にあえでいる母親だって心理的にも社会的にも孤立してます。
物理的に一人でいるという状態が問題ではなく、心理的・社会的孤立感に苦しむことが問題であり、それは独身とか未婚とか一人でいるとかいう状態には依存しないと思うわけですよ。
仮に、日本で孤独担当大臣ができたとしましょう。何をやるかといえば、たぶんこんなところでしょう。
「離別死別によって一人になった高齢者の集まれる場所を用意します」とか…。
結局、そういう箱ありきの発想になりがち。でも、そんな表層的なことで解決するでしょうか?
孤立の苦しみから脱出させるのは、決してハードとしての場なんかじゃない。シェアハウスに集めようが、趣味やクラブのサークルに参加させようが、本質的な孤立の苦しさは解決できやしません。もちろん、そういう居場所で救われる人もいるでしょう。でも、高齢者向けデイサービスという場所があっても、今も男性の高齢者はあまり行きたがりませんよね。それは別に、孤独を美化しているわけでも我慢しているわけでもなく、心底「行きたくない」からなんですよ。たとえ行っても、そっちの方が孤立感を味わうから。そうした人間の心の機微をわかってあげないと…。
かつては、どこかに所属していれば、それだけで安心だった社会でした。地域、家族、職場という共同体が安心を保障してくれていたわけです。しかし、もはや所属が安心を保障してくれる社会ではありません。むしろ家族がいるからこそ、学校や職場という集団の中にいるからこそ孤立感や疎外感を感じてしまう人も多い。ある人にとっては安心な環境であっても、それを苦痛と感じる人も存在します。前回「ぼっち飯」の記事を書きましたが、上司からランチに誘われることすらストレスと感じる人もいます。
https://comemo.io/entries/5264
それこそ、個人の性格や感受性の違いの問題なんです。その本質的な心の内面部分に触れずに見せかけの「孤独じゃない状態を提供しますよ」「孤独を感じない居場所を提供しますよ」なんてことをやったって問題が解決するはずがありません。
心が孤立している人を、状態だけ集団に所属させても無意味。もっと言えば…
周りに誰かがいてくれるだけで解消される寂しさなんてものは、たいした孤独(孤立感)じゃない。
毎日新聞の記事では、「孤独が危機」であるかの結論で締めくくっていますが、それは一面的。日本は、人口の5割が独身になるし、世帯の4割が一人暮らしになります。それは不可避です。そうした自然の流れに無理やり抗うのではなく、「個人化する社会の中で個人が孤立感なく生きていけるか」を問い直す方が重要でしょう。表層的な対応で、一人暮らしが減ったからっといって解決したなんて言えるはずがない。
個人化する社会とは、決して孤立化する社会ではありません。ひとりひとりが誰ともつながりを持たないのではなく、むしろ今以上に広くゆるいつながりを持つ社会です。所属していないと安心できない旧来のコミュニティの概念から脱しましょう。
つながりといっても、仲のいい友達を持つことだけがつながりではない。漫画「ワンピース」の麦わらの一味のような強い絆で結ばれた友達や仲間だけがつながりではないんです。そういう仲間は、その人間すべてを受け入れないといけないと思うから面倒くさくなってしまうのです。
その人の全部を受け入れる必要はなく、一部でいいんです。「同じことで感動できる」とか「好きな音楽やアニメが一緒」とか、そういう点の部分で価値観や考え方が同じ人とその点の部分だけつながればいい。それはリアルな交流だけではなく、顔も知らないネット上の交流でもいいんです。そして、そうした点をたくさん持つことが大切。そうした多数の点を自分の中でつなげていくことこそが精神的自立を生むのです。
拙著「超ソロ社会」にも書いたように、「家族だけ、職場だけ、という唯一依存こそが一番危険」なんです。孤独=悪と決めつけて、孤独である状態を避けようとするから、「群の中に所属しているのになんでこんなに寂しさを感じるのか?」というジレンマを感じるのです。
孤独であることは、悪いことでもないし、病気でもない。人間とは逆説的な生き物です。不自由の中になければ自由を感じられません。制約がなければ工夫は生まれません。孤独を知らなければ、真の人とのぬくもりは知り得ないのかもしれませんよ。