自宅が(半分)職場になるとき、職場は(半分)社交場になる
新型コロナウイルスとの予期せぬ「共生」が始まって、もうすぐ2年が経とうとする。筆者を含む多くのホワイトカラーワーカーにとって、最大の影響は、リモート勤務の日常化だろう。
2年前までは「行くのが当たり前」だったオフィスが急に、「来ないでください」に変わり、少し危機が収束したいまは、「行かなくても良い」に収まっている。
今後はどうだろうか?一部が「行くのが当たり前」に戻す一方で、多くの企業はオフィスの役割を再定義しようとしている。
私自身、ひとりのワーカーとして、リモート勤務には複雑な思いを抱える。もちろん、通勤がない、ビデオに映らない限り普段着でも平気、ちょっとした雑用を平日に済ませられるなど、メリットは大きい。その反面、リモート勤務が2年近くに及ぶと、物理的に同僚と集まることがなくなって、失うものが多いとしみじみと感じる。
リモート勤務ばかりでは、雑談や何気ない情報交換、同じ空気を共有することによる仲間意識などがそっくりなくなってしまう。既に人脈や経験が豊富な場合は、まだ恵まれている。一方、仕事を覚えようとしている新人にとっては、先輩のそばで、見様見真似が出来なくなってしまった。大きなハンディキャップだろう。
したがって、これからの理想なワークスタイルは、「やれば意外と出来てしまった」リモート勤務を続けるオプションを残しながらも、部分的にはオフィス回帰を図るというバランス技になりそうだ。そのためにはオフィスの在り方を、「行かなくても良い」から「時々は行きたい」へ、積極的に変えなくてはいけない。
では、「時々は行きたい」オフィスとは、どんなものだろうか?「行きたい」には理由が必要だ。そこで、思わず足が向く大学のキャンパスを想定しながら、3つの理由を考えてみた―まず、「(予約や面倒な企画無しに)ひとと会える」こと。キャンパスでは、教室や部室があり、行けば必ずだれか知った仲間がいる安心感がある。オフィスになぞらえれば、個人のワークスペース以外に、なんとなく集まる場所が多く設けられていることが必要だ。
次に、「居心地が良い」ことが、足が向くためには必要条件。大学のキャンパスは治安がいいうえ緑が多く、歩くだけで気持ちが良い。北海道大学の卒業生に言わせれば、散策を楽しむ観光客にカメラを頼まれることが多く、そのせいで授業に遅刻したとか。オフィスにとっても、無機質なデスクが横並びになった、工場のラインを模したようなレイアウトよりも、よりひとがリラックスできるような設計が求められる
最後に、「何かと便利」なことも意外と重要だ。例えば、大学のキャンパスでは生協がライフラインとなり、学食では安く栄養バランスのいい食事ができる。特に一人暮らしの学生にとってはありがたい場所だ。
ワーカーにとってはどうだろう?いくらデジタル機器がそろっていても、自宅ではやはりやりづらいことが出てくる。たとえば、建築事務所に勤務する知人は、図面を印刷する大型プリンターがあるため、オフィスに行くことが欠かせないという。職種によって違うだろうが、オフィスに行った方が便利だよね?という機能を思い切り充実させることが、オフィス回帰への誘引剤となるだろう。
これら「ひとと会える」「居心地がいい」「何かと便利」の三拍子を満たす試みが、例えば「社食で会食」ではないか。バリスタやパン職人を雇い、料理にこだわり、社外の人とも会えるそうだ。オフィスにこんな場所があったら、「時々は行きたい」を楽にクリアすることだろう。オフィスの役割を、「こもって仕事をする場」から「社内外の人と交流を深める特別な場」と再定義する、意欲的な試みだ。
コロナ危機以前、自宅は第一の場所、オフィスは第二の場所と呼ばれていた。このとき、「第三の場所」として、公のスペースながら私的にくつろげるカフェが台頭したのが2000年代。これからは、リモート勤務によって自宅が、私宅とオフィスを足して割った「1.5の場所」になり、オフィスが、仕事場と社交場を足して割った「2.5の場所」になるのかもしれない。今まで1,2,3と分かれていた切れ目があいまいになったともいえる。同時にワークとライフの境も溶けだしている。
このとき、仕事の生産性のみならず、ライフ全体の満足度を上げるためには何が必要だろうか?私たちワーカーにとっても、1.5や2.5の場所を柔軟に使い分ける自律とセンスが求められると考える。
学校の比喩に立ち返れば、「行くのが当たり前」だった高校生活が、「時々は行きたい」大学生活になったようなもの。または、制服から私服になったような変化だ。時間の過ごし方や過ごす場所に自由度が大きくなるからこそ、個人が自分自身に負う責任が大きくなる。これが、私たちの直面する課題である。
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