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世阿弥の稽古論とアート思考から教育を考える

お疲れさまです。uni'que若宮です。


先日、慶應SDMヒューマンラボ・アーツアンドデザインラボのシンポジウムでお話しました。

その際、少し世阿弥についてもお話しし、こちらの本をご紹介したのですが、

『世阿弥の稽古哲学』はいわゆる美術史・歴史学的的な世阿弥研究ではなく、教育学のバックグラウンドをもつ西平さんが「稽古」をキーワードに教育学的視点から世阿弥を読み解く、という面白い本です。

そこで、今日はちょっと教育のあり方について考えたことを書いてみます。


世阿弥を教育論として読む

世阿弥と言えば観阿弥とともに現在の能を大成した巨人として知られますが、能楽師としてのみならず、『風姿花伝』や『花鏡』などの理論書を残していて、その概念やアナロジーのクオリティが高くて本当にすごい。

で、教育の話をするにあたって、今回ちょっと注意したいのは、『風姿花伝』や『花鏡』っていわゆる能を習いたい人のためのハウツー本ではないのですよね。

なぜかというと、これらの書は一般に向けて出版されたのではなく、「秘伝書」つまり基本的に門外不出の本だったからです。

しかも一門ならみんな読めるのかというと、

「たとへ一子なりといふども、不器量の者には伝ふべからず。家、家にあらず。継ぐを以て家とす」(『風姿花伝』別紙口伝」)

という厳しいお言葉がありまして、要はたとえ一門でもちゃんと能が出来た人にしかみせたらあかんで、という…。つまり能をできるようになった人しかみれない理論書、というわけで全然ハウツーじゃないんですよね。

そもそも世阿弥自身が、能の成就って言葉だけで伝えることはできない(「語にも及びがたし」『風姿花伝』)と書いてますし、じゃあなんで本を書いたんだよと。一体この本、誰向けの、何のための、本なのでしょう?

能のやり方の本じゃないし、能がちゃんとできちゃった人だけが読む本。

こうした事情をよく考えると花伝書って、習う側ではなくむしろ教える側、つまり稽古をつける側の心得を書いた教育書ではないかと僕はおもうのです。


「習はでは似すべからず」

なので本記事では以下、教える人のためのアドバイスとして世阿弥の言葉を見ていきます。

「風姿花伝」ではまず、子供の稽古について語られています。

この芸において、おほかた、七歳をもて初めとす。このころの能の稽古、必ず、そのもの自然とし出だす事に、得たる風体あるべし。舞・働きの間、音曲、もしくは怒れる事などにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うち任せて、心のままにせさすべし。さのみに、よきあしきとは教ふべからず。あまりにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能、ものくさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり。

7歳くらいから、と言われているのでちょうど小学校くらいですね。ここで重要なのは、「そのもの自然とし出だす事」「ふとし出ださんかかりを、うち任せて、心のままにせさすべし」など本人の「自然」を大事にしていることです。

もちろん稽古ですから、ただゆるく本人の自由にまかせるわけではなく、そこには厳しい鍛錬もあります。このあたり、もう少し詳しく見ると、世阿弥が子供の頃の稽古で大切にしていることがわかります。

「習はでは似すべからず。…初心の人、習ひもせで似すれば、心も身も七分になるなり。 」『花鏡』
「まづ、二曲を習はんほどは、三体をば習ふべからず」 『花鏡』

習わでは似すべからず」の「似す」とはどういうことかというと、能というのは基本的に物真似の芸なのですね。物真似といってもコロッケによる岩崎宏美(シンデレラハネムーン)とか清水ミチコによる田中真紀子(おっかないねゴリラ)とかそういう個人の真似をするのではなくて、老人とか女性とか武士を演じることを指します。

「二曲と申すは舞歌なり。三体と申すは物まねの人体也」(『至花道』二曲三体の事)

で、これと対比される「二曲」とは物真似の芸ではなく、「舞」と「歌」のことです。「習わでは似すべからず」というのは、舞とか歌を十分稽古しないうちは、物真似はしてはいけないよ、ということなのですね。


ではなぜ物真似をしないほうがいいかというと、世阿弥はこんな風に言っています。

「また、当時の若き為手の芸態風を見るに、転読になることあり。これもまた、習はで似するゆゑなり。二曲より三体に入りて、年来稽古ありて、次第連続に習道あらば、いづれも得手に入りて、頭頭の芸風になるべきことなるを、ただ似せ学びて、一旦の事をなすゆゑに、転読になるかと覚えたり。『花鏡』

この「転読」というのはもとは仏教用語で「真読」の対義語なのですが、要は「かいつまんで省略し、なんとなくできたことにしちゃうこと」みたいな感じで、本来的なあり方ではないんですよね。

安易に真似すると「なんとなくできたこと」になっちゃって、結局将来よい芸ができない、と。


「小物にてしつけたらん形木」

世阿弥は技巧性(「わざ」)より自然なあり様(「無心」)を大事にしており、ために子供の芸にひとつの理想形をみているふしがあります。
(このあたりは「子供は誰でも芸術家だ。問題はおとなになっても芸術家でいられるかどうかだ」と語ったピカソや、自由に遊ぶ「小児」を理想と考えたニーチェに通じる感性を感じます)

「まづ童形なれば、なにとしたるも幽玄なり」『風姿花伝』
「児姿は幽玄の本風なり」『二曲三体図』

しかし一方で、世阿弥はこうも戒めます。

「さりながらこの花は、まことの花にあらず。ただ時分の花なり。さればこの時分の稽古、すべてすべてやすきなり。さるほどに一期(いちご)の能の定めにはなるまじきなり。」『風姿花伝』

「時分の花」というのはその時素晴らしくみえてもいずれ失われる一時的なものであり、「まことの花」ではない、と。なのにこの時に調子に乗ると「一期の能」(一生つかえる能)にはならない、と。

先程の「似すべからず」と合わせて考えると、「似す」ことがいけないのは、若いうちに形だけできて名声を得る慢心への戒めと言えるでしょう。

そして、こうした若いうちの名声は将来の芸にも影響してしまいます。

「まして、小物にてしつけたらん形木に入詰まりなる身体ならば、その時の分切にていつまでも通るべし」『遊楽習道風見』

子供の頃に小さい「形木」(型)がついてしまうとそれに「入詰まり」、その小分け感が「いつまでも」影響してしまう

「似す」で小器用に成功しちゃうと将来の可能性が狭められてしまうのですね。


「わが風体の形木を極め」

以上のように、世阿弥は稽古において表層的にやり方だけを「似す」ことによって本来の「花」ではないのに慢心したり、小さい「形木」に入って「詰まる」ことを戒めています。

しかし、日本のいまの初等教育は、まさに「似す」からはじめ、「時分の花」に満足して「小物にてしつけたらん形木に入詰まり」させてしまうようなところがないでしょうか

能における「二曲」を教育でおきかえるなら何でしょうか。基礎になるインナーマッスルや体幹のような、「物真似」ではないその人の身体からふりしぼられる可能性の根源を鍛え、引き出すこと。自分の頭で考える力や自分なりの仕方で何かをつくり出せるという自信をつけること
(このようにいうと、アクティブラーニングやワークショップがよい、といっているように思われるかもしれませんが、僕は形式として特にどれがよいとは考えていません。そうしたやり方でも表層的な「ごっこ」になることがあるからです。形式よりむしろ、興味のあることを稽古のように繰り返し実践し、自分なりのやり方がみえるまで試行錯誤することこそが「二曲」だとおもうのです)

このような「自分」を起点とできてこそ、その後の「似す」も含めて芸の幅が広がる、と世阿弥はいいます。

「わが風体の形木を極めてこそ、あまねき風体をも知りたるにてはあるべけれ」『風姿花伝』

ここで注意したいのは、先程「小物にてしつけたらん形木」と否定的な意味に使われていた「形木」がポジティブな意味に使われていることです。「形木」は可能性を狭めることにもなれば、可能性を開く基盤にもなるのです。


こうした「型」のアップデートについて、稽古ではよく「守破離」ということも言われます。「守破離」自体は世阿弥の言葉ではありませんが、世阿弥の思想ともかなり通ずるところがあると思います。一度「型を守り」ながらも、その後で「型を破り」、「型を離れる」。「型を離れる」というのは自分らしい型を見つけ出していくことですから、「守破離」は「小物にてしつけたらん形木」にとどまらずに「わが風体の形木を極め」るプロセスと重なるのです。

そして「破」あるいは「小物にてしつけたらん形木」をうち破るために、まさに「二曲」によって培われる「自分らしさの体幹」が必要だとおもうのです。


「教育」という言葉は「教え、育む」と書きます。この「教え」は、字の成り立ちとしては「ムチを持つ手で子供を打つ様子」ですから、「しつけ」的な意味合いが割と強い言葉です。実際初等学校教育ではまず、皆と同じように行動するように「仕付け」られます。

「守破離」においてもまずは「型を守る」わけですが、勘違いしてはならないのは、それはあくまで将来に「型を離れる」ためであり、それぞれのばらばらな可能性を引き出していくための手段であり過程にすぎないということです。それを忘れ「守」自体を目的化してしまったり、「二曲」を鍛える前に「似す」をしてしまうと、子供の可能性を減らしてしまうことになるのではないでしょうか。


受験や宿題など、今の初等教育では「二曲」よりも「似す」ことを先にやってしまいがちです。それによって効率よく点数を取ったり大人の求める正解を出せるようになれば受験には合格できるかもしれない。でもそれは「時分の花」でしかなく、「小物にてしつけたらん形木」になりかねません。

(永守さんのように受験や偏差値主義を明確に否定する方もいます)


念の為いい添えると、僕はなにも幼いときから勉強すること自体が悪いと言いたいのではありません。ただその環境をつくる大人たちは「時分の花」に一喜一憂せず、あくまで子どもたちの個性を潰さぬように注意し、それを引き出し基本となる「自分起点の体幹」を鍛えることを第一義に考えていくことが重要ではないでしょうか。

そうした教育の意識を持つためにも、これからは「似す」よりも「二曲」からはじめ子供のユニークな可能性を引き出す「稽古」的な教育が、とくに「教える側」の親や大人にとってこそ必要なのかもしれません。


(今月『ぐんぐん正解がわからなくなる!アート思考ドリル』という書籍を出版しました。この記事でかいたような「自分の頭で考える力や自分なりの仕方で何かをつくり出せる」稽古にもなるワーク形式の本で、子供も大人も楽しめるとおもうのでよかったらぜひチャレンジしてみていただけたらうれしいです)


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