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広告における「性的表現」に対する2つの問いについて考えてみた

お疲れさまです、uni'que若宮です。

今日は広告における「性的表現」について考えてみたいと思います。


広告における性的表現

このところたびたび、広告における「性的表現」が問題になります。

先日もこんな広告を巡って議論が…

「JR大阪駅の御堂筋口。こんな広告が...。2022年の日本、女性の性的なイラストが堂々と駅出口で広告になるのか...」  指摘された広告は、対戦型オンライン麻雀ゲーム「雀魂」のもので、人気アニメ「咲-Saki-」とのコラボを告知する内容。バニーガール風の衣装を着た女性キャラクターや、水着姿の女性キャラクターのイラストなどが掲示されていた。

こうした広告の問題はどんなところにあるのでしょうか?


乙武さんからの問い

尾辻さんの広告批判に対し、乙武さんから↓のような疑問が投げかけられました。

尾辻氏の問題提起を受け、乙武洋匡氏は雑誌「an・an」の表紙の画像を添え、「相撲とか『anan』の表紙って、誰も『性的』だと言わないよね。なんで男性の裸体はいいんだろう?」との疑問を投げかけた。

こうした疑問の投げかけは穿った見方をすると(別に問題なくない?と言っているような)反語的な否定と取られることもありますが、乙武さんはおそらく尾辻さんの批判に反論しようとする意図はなく、純粋に「どうなんだろう?」と発した素朴な疑問だったのではないかという気がします。

後述しますが、こうした問いを「素朴な疑問」として発することができる、という事自体がある種の特権であったりします。問題と気づかずに暮らせている事自体が非対称性や特権性に拠っており、そこにすでにしてアンコンシャス・バイアスがあるのですが、(自分自身もわからないことがある一中年男性として)「それがわかんないからダメなんだよ!」と切り捨てしまうよりも、個人的にはこうした疑問をきっかけとして議論が進む方が有効だと思うので、問いに対してひとつひとつ考えてみたいと思います。


①相撲はなぜOK?

乙武さんの問いを分解して考えてみると、①相撲がOKと、②男性がOKでは問題がちがう気がします。

まず①相撲はなぜよいのか?という問題。


たしかに、相撲では今回の広告よりもはるかに多くの「肌の露出」があります。

ですが、問題は物理的な「肌の露出」の量ではありません。その「露出」がどのような目的でされているかに拠ります。

いうまでもありませんが、相撲で肌の露出が多いのは単にそれがスポーツをする上での正式な出で立ちだからです。乙武さんは相撲に続いて『anan』の男性をあげているので、「相撲」も「男性のスポーツ」として取り上げているのだと思いますが、水泳やビーチバレーの選手も肌の露出は多いので、スポーツでの肌の露出が問題ではないのは男女に限らないことです。

スポーツの「肌の露出」は競技上の目的に照らした必然性があります。身体の鑑賞が競技の主眼であるボディビルなどでとりわけ肌の「露出」量が多いですが、それでも男女問わず許容されます。

一方、今回のような広告ではターゲットのある種の性的興奮を誘うために「露出」が使われているところがあります。たとえ肌の露出量が同程度であっても、ボディビルダーの写真と水着グラビアとでは狙いがちがいますから、「駅」という往来の多い場所に貼り出された時の意味合いは同じではありません。

つまり、「肌の露出」の量それ自体ではなく、性的興奮の喚起が企図されているかどうか?というところがポイントになりそうです。

スポーツに限らず、美術館での裸体(ダビデ、ヴィーナス)も性的興奮から切り離されていることにより容認されます。(美術も実は当時は鑑賞者男性の性的興奮のために描かれたケースもあったり裸体モチーフの性の偏りの問題もあるのですが、美術史的な検討も必要になるのでここでは立ち入りません)

少なくともいま性的興奮を得るために美術館に裸体を見に行く人は多くはありません。スポーツ選手の露出をみて性的に興奮する人もゼロではないでしょうが、露出によって性的興奮の喚起が意図されているわけではありません。

「相撲」と「女性の性的なイラスト」のちがいは、性的興奮を企図するかというところが大きな分かれ目でしょう。


②男性ならいいのか?

次に「なんで男性の裸体はいいんだろう?」という問題。

すでに述べたように、(特に公の場所での掲示では)「性的興奮の喚起意図」の有無によって問題は変わってきますが、この観点から女性と男性を比べた時、単純に身体部位のちがいからも「露出」による「性的アピール」の度合いにはちがいがあります。

乙武さんが投稿しているananの男性の写真は上半身が裸ですが、男性の上半身と女性の上半身とでは「性的アピール」の度合いがちがいます。男性の裸はOK、というのではなく、男性の胸部は女性の胸部と比較すると「性的」な度合いが弱く、胸部の露出だけでは「性的興奮の喚起」になりづらい、というところは一つあるでしょう。(でなければなかやまきんに君はセクシータレントということになってしまいます)

ananの写真の場合は男性だからいいのではなく、性的興奮へのフォーカスが弱いので大丈夫なだけで、逆にいえば男性のananの表紙や駅のポスターだとしても、性器を強調するようなアングルや服装だったらNGではないでしょうか。(実際今回の広告のビジュアルの「露出量」はそれほどでもないのですが、女性の性的な部位に視線を集めるようなポージングや構図の方が問題でしょう)


さらに、「性的興奮の喚起」という観点からみて女性と男性を比較した時、女性の裸体の方がはるかに「消費」されがちという非対称性の問題もあります。

女性の裸をみて性的に興奮する人と男性の裸を見て性的に興奮する人の割合でどちらが多いか、ということでもありますが、女性の裸体は男性の裸体に比べ、圧倒的に性的興奮のための消費対象にされやすいのです。そして、自分が性的消費の対象とされている人とそうではない人とで警戒度がちがうのは当たり前です。

変なたとえですが、草食動物と肉食動物が一緒に暮らそうとする時に、草食動物が安全に気をつかうのを、肉食動物が「いや警戒しすぎやんww」とか「こっちは警戒してないやん」と同等に比較するのは、想像力の欠如であり、強者の論理でしょう。


「じゃあ男性の裸はいいのか?」という問いを男性が発する時、こうした消費の非対称性に無自覚であることが多い気がします。そしてそれに無自覚でいられるということ自体がまさに非対称性のおかげなのです。

男性の多くは痴漢にあう恐怖を知りません。女性専用車は特権だ、逆差別だ、という人もいますが、気にせずに電車に乗れる男性とどちらが特権をもっているのでしょうか?それを忘れて「いっしょでしょ?」というのはやはり無自覚だと思います。


「肌の露出」は「自由」か?

こうした非対称性があるため、「露出」というのは形だけではなく、意思の主体から考えるべきだと思います。

今回の広告については、こんな問いも投げかけられていました。

「肌の露出」を女性も求めてきたはずじゃないの?なんでだめなの?と。

しかしここで重要なのは「意思の主体」がちがう、ということではないでしょうか?

女性が自らの意思で「肌を露出したい」と思っているか、そうではなく「露出させられているか」ということですね。大事なのは「どんな格好か」ではなく、「望む格好を自由に選択できるか」の問題なのです。

これはなにも肌の露出に限ったことではありません。メイクやハイヒールも、自分がそうしたい時には気分を上げてくれるかもしれませんが、したくもないのにしなければならないならそれはまさに #Kutoo なのです。


女性が肌の露出を求めてきたのは、社会の抑圧から解放され、自らの意思で服装を選びたい、という主体的な選択自由度への要求です。

ミニスカートはウーマンリブの意志表示になりえますが、会社で上司が「いいじゃん。もっとミニスカート履いてきてよ」と求めるのはその全く反対です。そしてこの「ミニスカート履いてきてよ」という言葉は、「ミニスカート」を性的消費の対象にすることで、それを選択する自由を奪うのです。


「そんな短いスカート履いているから、誘ってると思われるんだよ」

「スカートの中みられたくないなら長いスカートを履けよ」


などという声をよく聞きます。なぜ、男性の性的消費の対象になるか/着たい服を諦めるか、の二択を押し付けられないといけないのでしょうか。男性の性的消費の対象にならずに着たい服を着る、というのが本当の「肌を露出する自由」ではないでしょうか。


ここを取り違えて、「いや、露出したいんでしょ?」というのは、女性の主体的な意思への尊重が欠けていると思います。今回の広告も(フィクションの人物ではありますが)男性が主体の消費対象として「露出」させられているのが問題で、そうした消費対象として喧伝されることはやはり女性の選択の自由を狭めるものです。

目指されるべきは「女性を性的消費の対象として扱わない社会」であって、それは「性的消費の対象としての露出」が横行する社会とは真逆の世界なのです。

女性が過度に性的に扱われたり性被害にあわないようになって初めて、女性は自由に服装を選択することができます。

こうして考えれば、実は「女性が肌を露出する自由」と「性消費的な女性の露出に反対すること」は背反しませんし、それどころか同じ方向を目指していることがわかると思います。

女性専用専用車は特権だ、逆差別だ、という意見があります。しかし、女性だって痴漢がいるから女性専用車両に「避難せざるをえない」状況に追い込まれている、緊急避難的な状態です。最終的には痴漢がいなくなり、女性専用車がなくても安心に電車に乗れるようになるのが理想です。しかし痴漢がいる状態で、ただ女性専用車をなくしてしまえばそれは解放ではなく、かえって電車に乗る苦痛を増やすことにしかなりません。


窮屈でない社会になるためにこそ対話とジェンダーバランスが重要

今回のようなケースでは、「言葉狩り」や「表現の自由」の侵害、というような意見もあります。僕もアートや文化には「いかがわしさ」も必要だと思っていて「表現の自由」の重要性は信じているので、なんでもかんでもNG!炎上即削除!みたいなのには反対です。

でも、なればこそ、正しい知識やアンコンシャス・バイアスを打破していくための議論や対話が必要だと思うのです。

たとえば生理や性の話は、僕らが子供たちの頃よりはだいぶ普通に話せるようになってきました。でもそれって昔みたいに「生理は下ネタ」みたいな空気があったり、男性側が無理解に「何イライラしてんだよ、生理かよ」とか言っちゃうようなところから、少しずつ社会がアップデートされてきたからだと思うんですよね。

そういう認識のアップデートをすっ飛ばして「生理の話きかせてよ」みたいに男性が興味本位で言ったらそれはセクハラにしかなりませんよね。


表現や選択の「自由」を守るためにこそ、女性の批判や意見をまずは真摯にきいて、議論していくべきだと思うのです。

そして片手落ちにならないよう両面の視点を得るために、ジェンダーバランスの改善も必要だと思います。なんとなれば、すでにみたように被害当事者ではない男性はそもそも非対称性に気づきづらかったり、男性視点での訴求がかえって「消費」を進めたり当事者の「自由」の阻害になってしまうことがあるからです。

「ストッキング大手のアツギが2020年冬にツイッターで投稿したイラストも物議を醸した。女性向けタイツの宣伝に、過度に太ももを強調した女子学生、スカートを自ら手繰りあげる女性などイラストを投稿し多くの批判が寄せられた。あれらは特定の層による妄想、性的欲望によって存在する女性像だ。それを女性向け商品の宣伝に用いた。不快に感じる人がいることを想像できなかった」

「マーケティングに関わる人材の男女差をなくし多様化を推進することだ。男女比でいうならば、女性は3割以上いるのが望ましい」

今回の件を単なる炎上と片付けず、分断せずに議論をしながら社会が窮屈ではない本当の自由へと向かってアップデートされていくとよいですね

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