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お疲れさまです、uni'que若宮です。今日は「NFTアート」の話を書こうと思います。


『NFTとアートのこれから』at 3331gallery

昨日、予定の合間でなんとか時間がとれたので↓の展示を観にいってきました。

こちらは3331 Arts Chiyodaで開催中の「3331 ART FAIR 2021」の特別企画なのですが、藤幡正樹さん、藤本由紀夫さん、中ザワヒデキさん、中村政人さんという錚々たる顔ぶれによる、「NFTアート」をテーマにした展示です。さすがの面々なのでそれぞれ仕掛け方が面白いのですが、とくに今日は、藤幡正樹さんの展示『Brave new commons』が面白かったのでそこから感じたことを書きたいと思います。(昨日Voicyでも短く話したので話難しいなと思った方はこちらもどうぞ)



こちらの展示です↓ つづきを読む前に前提として一度ご覧ください(現在はこちらのサイトから作品購入も可能です)

実は↑のサイトに全展示作品が「掲載」されているのですが、現地ではそれが「額縁」に入って飾られています。どういう作品かという説明を引用すると、

1  以下の上げた過去の未発表デジタル作品が対象です。いわば、価値があってもデジタルなので売りようのなかった作品です。今回は1985年頃に作られた未発表のMacPaintで作られた画像から選びました。
2  これに販売者(藤幡)が元値を設定しました。
3  購入希望者を3331アートフェアとウェブ両方から募集します。フェア終了後に参加者数で元値を割り算したものが購入者の払う金額になります。参加者が多いほど、一人当たりの値段は下がる仕組みです。参加者はより多くの参加者に声をかける。と、もっと下がるということになりますので、友人にドンドン進めてください。みんなが欲しがる作品ほど安くなってゆくでしょうし、人気がないと高いままになるのではないかと、。
4  アートフェア期間中は、会場にて参加申し込み可能、会期後ウェブでの参加申し込みに移行します。
5  募集締め切り後、参加者数=エディション数の形でNFTを発行。振り込み確認後に、藤幡から各購入者へ作品を譲渡されます。
6 コモンズの誕生です。

ざっくりいうと、昔のデータにNFTをつけて売り出し、かつその価格は購入者数で割り算する、と。シンプルなルールなのですが、これがいくえにも「メディアアート」的でとてもおもしろかったので、以下に自分なりに感じたポイントを書きます。


「NFTアート」の価値とは?

まずこの作品では、「作品価値」というものがぐらぐらと揺らされます。

『Brave new commons』では、そもそも「売りようのなかった作品」をNFTによっていったん価値化します。

たとえば僕は、↓の『001 tmp』と題された作品を購入したのですが、

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この作品にはこういう説明が付されています。

作品番号: 001 Title: tmp
作成日: 1989年1月27日 金曜日 0:02
極めて希少価値の高い、明らかな書き損じである。そもそもこのファイルが 30 年以上も生き延びたこと自体が奇跡であろう。そして明らかな当時のボールマウスの軌跡。

1989年っていうと実に32年前なわけで、当時のコンピューターアートのデータだというだけで「希少価値の高い」ものではあるわけですが、「明らかな書き損じ」だとも言われてます。

現地で藤幡さん自身も「なるべく価値のつけづらいようなものを作品に選んだ」とおっしゃっていましたが、「売りようのなかった」データが「NFT」という技術によって価値化される。このことに潜む問題系を藤幡さんらしい批判的かつユーモアのあるウィットで浮かび上がらせているわけです。

NFTとは「Non fungible Token」の略で、「代替不可能なトークン」つまり「代えられないしるし」です。それがいま「NFTアート」としてアート界隈で非常に注目され、数億円という値段がついたりバブルの様相を呈している。

それはなぜかというと、デジタルデータに「希少性」を付け加えられるからです。デジタルデータというのは複製が容易で、理論上ほぼ無限に量産できます。絵画のようなtangibleなアートが数億円のような価値がつくのは、それが「一点もの」だからで、いくらでもコピーできるとなればそれは失われ根が下がってしまう。これがデジタルアートのジレンマでした。

しかしNFTをつければ「一点もの」として、オリジナルであることや所有者の証明ができ、「希少価値」によって値をつけられるわけです。

古い「書き損じ」のデータとして埋まっていた「tmp」もNFTの付与によって、1,000,000円の値がつけられる。


しかし、この展示はこれにとどまりません。というのは作品の最終価格は「¥1,000,000/参加者数」ということになっており、この作品を購入する人数によって「割り算」され変わっていってしまうからです。1人なら100万円、100人なら1万円、100万人が買えばなんと1円です。

注意してほしいのは、これが「割り勘」や共同保有ではない、ということです。一点の作品をみんなでお金を出し合って共有しよう、というのとはちがうんですね。そうではなく、絵を買った人はそれぞれが全員ひとりずつ「所有者」になります。そしてなぜそういうことが可能かというと、これがもともとデジタルデータだからなのです。仮に100万人が買ったとしたら、このデータをコピーして100万個のエディションを生成し、それぞれにNFTをつけてとして引き渡すことができる。NFTによる「一点もの性」を使いつつも、コピーによって量産する、という矛盾することができる。

以前、NFTについてこちらの記事で、

NFTによりアート作品がスピーディに流通することで、かえって「fungible(代替可能)」になり、価値がさがってしまわないか

ということを書いたのですが、この作品はNFTをパロディ的に用いることで、こうしたある種のNFTの脆弱性についての批判になっています。そしてそれはまたNFTのみならず、資本主義が抱える市場の論理そのものの批判であるとも言えるかもしれません。

みんなが欲しがる作品ほど安くなってゆくでしょうし、人気がないと高いままになるのではないかと、。

一般的にはものの値段=価値だと思われていますし、古典的な市場論としてはニーズがあれば価格があがるという「需要と供給」の話が信じられていたりしますが、人気があるほど安くなる、ということが起こってしまっているのが現在の資本主義市場です。(ファストファッションやファストフードなど「ファスト化」によるデフレがその典型ですね)
我々はあらためて「価値」と「価格」について考えてみるべき時期に来ているでしょう。


価値のゆらぎに巻き込まれる

実際、購入して1日経って奇妙な感情に襲われています。

というのも、僕は8番目に買ったわけですが(この時点で125,000円)、その後昨日だけで10人以上に同じ作品が売れ、本日には5万円以下になるそうです。

これが複雑なんですよね(笑)

なんといったらいいのでしょう、沢山の人が自分の「後」に買っている、ということにはちょっとした優越感もありながら、一方で自分が見初めたものの「値段」がさがっていく、というのが複雑なのです。そしてまた、自分と同じ作品(NFTなので「同じ」ではないのですが)を保有する人が増えていく、というのも複雑…。それは自分が初期に見初めたアーティストがメジャーになっていく寂しさに近いようでもあり、恋人が実はたくさんの人と寝ていたと知った時の嫉妬のような感じでもあります。

そしてそのたびに、「たくさんの人に届くほうがtmpさんにとって幸せじゃないか!!なんて小さな人間だおれは…!」という葛藤に苛まれています(笑)

たぶんこれ、世の中「所有から共有へ」とか言われていますが、まだまだ人間の価値観のOSが本質的には「所有」もっと言えば「専有」というパラダイムを抜け出せないでいる、というそこをつかれているんですよね。

その意味で「NFTバブル」に群がってういる欲望の両極にある「希少」と「量産」の矛盾、そして市場原理の逆説や人の欲望の根底の「業」を鮮やかに作品化している。


「アート作品の価値」とはなにか?

そしてこの展示、NFTの価値への批判だけではなく、アート作品の価値についても揺さぶりをかけてくれます。

たとえば「希少価値」。「NFTで一点もの化」された作品をエディションで複数化する仕掛けは、たとえばアンディ・ウォーホルがシルクスクリーンによって「一点もの」という価値にゆさぶりをかけたのを身振りとしてパロディしつつ、かつ、それが「デジタル」であることによってより先鋭化して提示します。シルクスクリーンなら、とはいえ「一点ごとのちがい」という価値もいくばくか残存しますが、デジタルではそれもなくなってしまうからです(実は一番目に作品を購入すると、現地で飾られている額縁つきのものがもらえる、という特典があるのですが、これにまんまとそそられてしまうっていうのがもうw)

それは同時に「つくる」という行為の価値の批判的検証でもあるでしょう。そもそも今回の作品はあたらしくつくられたものではなく、過去のデータから「選ばれただけ」のものです。そこにはデュシャン的であり、かつその複製においてもシルクスクリーンではまだ介在した「刷る」という行為すらなくなってしまいます。そこには努力も労力も技量も必要ないように思える。はたしてこの作品において「つくる」とは何なのか

また、デュシャンのレディメイドとはちがい、自らの過去を対象化してとりだすことで「完成」という価値も問い直します。なぜならそもそもこのデータは完成品ではなく、途上であるどころか「明らかな書き損じ」なのです。アート作品とは「完成」してこそアートであり、作者とは作品を完成し、制作プロセスからちぎりとってそれを「作品」に結晶するからこそ作者たりえたのです。「書きかけ」あるいは「書き損じ」を価値化する、ということはそれに反する行為でもある。最近、「アウトプットエコノミー」から「プロセスエコノミー」へ、ということが言われていますが、この作品は「プロセス」をむしろ「アウトプット」にしてしまう。(「tmp」(=一時ファイル)というタイトルがまた皮肉が利いています)

さらにこのことからアート作品の「史的価値」ということも浮かび上がってきます。実は「つくりかけ」が展示されたり作品として価値を持つこと自体はあたらしいことではありません。画家の素描(スケッチ)であったり建築家のエスキスや基本設計のプランであったりというのは、作家の創作過程を知る上で価値を認められ、それだけで展示会が組まれたりするほどです。何なら、「純粋主義」的な美学的観点から言えば、制作過程でさまざまな外的要因により変更をこうむるアートでにおいては「スケッチこそが芸術家のもっともピュアなオリジナルだ」と考える人すらいるかもしれません。

創作プロセスとしてでなくとも、たとえば芸術家が当時の恋人とやりとりした手紙とかが展示されることがあります。これを見るたびに僕は「文春砲でLINEのやりとりをさらされるようなもんやん…やめたげて…」と思うのですが、見たい人がいたり、それによって作家像の検証ができたりという「史的価値」があるのはまあわかります。そういう意味ではこの「tmp」は、メディアアーティストの重鎮がごく初期てがけたものとして「史的価値」をもつものであることは間違いありません。とはいえ、展示会場にあるフロッピーディスクには展示されているものの意外にも数万のデータがあるでしょうが、それらがすべて等しく価値を持つか、というとそうでもないのです。


「メディア」として「NFT」”を”「アート」する

このように、今回の展示では、「NFTアート」というものを巡って、より詳しくいうと「NFT」そして「アート」の価値について幾重にも価値のゆさぶりが仕掛けられています。

そして、そのアプローチがすぐれて「メディアアート」的だなと思うわけです。

以前藤幡さんがたしか芸大のメディア特論のときだったと思うのですが、「メディアアート」というのはその名称からして特異である、ということをおっしゃっていました。

どういうことかというと、他のアートは基本的には「メディア、メディウム(媒体)」ごとにジャンルが切られている。絵画はカンヴァスと絵の具だったり、彫刻だとブロンズのマッスだったり、音楽だと音と空気だったり。そこでは「メディア」は自明のものとされていてほとんど透明化している。絵画のことをわざわざ「カンヴァスアート」とかいったりはしないですよね。「メディア」は前提とされていて、そのメディア「で(を使って)」何を表現するか、ということが競われている。

しかし「メディア・アート」は「メディア自体の可能性」を主題化し、それにきづかせてくれます。もちろんそうではないメディア・アートもたくさんあって、「コンピューターアート」や「VRアート」といえば、コンピューターやVR「を使って」なにかを描くものが多い。しかし僕は、透明化しているメディアを通りすぎず、「そもそもメディアとは?」と立ち止まってそれに気づかせてくれる、こういう異化的なことこそアートの力だなあと思うのです。こうしたアートに出会うと日常という透明化・記号化した媒体にも豊かな可能性が立ち上がるからです。

その意味でこの作品は、「単にNFTをつかったアート作品」ではなく、「NFT(というメディア)をアートした作品」だと思います。

(こちらの記事も面白いので読んでみてほしいのですがここで言われている「"本物の"」というのも上記感覚に近い気がします)


というわけで『Brave New Commons』(またこのタイトルにも皮肉がきいている)、同時代のメディアアートのエポックメイキングな試みとしてとても興味深く体験しました。否、正確にはまだ「体験中」です。よくいうのですが、アートは「知っている」ことと「体験する」ということの間にはものすごい差があります。そしてこの作品に関しては上述の通り、「買う」ことによって、「参加」することで感じられるものが大きく変わると思います。

この記事は展示が今日10/31までなので興味をもってほしく、急遽書きましたので滑り込める方はぜひ!(追記:展示は終了しましたが下記サイトから注文できます。よかったらいっしょに「参加」してみましょう!)

ちなみに、展示がおわっても作品の販売はweb上でする予定とのこと。割り算で価格がさがっていくと購入の意思決定ハードルがさがり(10万かー、と逡巡する人でも1万なら買ってみようか、という)購入者はあとに行くほど反比例グラフのlimit x→0的に増えていくとおもうので、最終はかなりの購入数になるのではという気がします。ただ、早めに買ったほうが(最後に払うお金はみんな一緒なのですが)上述のような「寂しさ」や「嫉妬」みたいな感情や価値の変動について味わえるので、お早めにチェックされることをおすすめします。



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