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AIの活かし方:懐疑派による「恐る恐る」アプローチ

生成AIの席巻は指数関数的な速度で進み、私の周りでも日常的に仕事へ応用する同僚が多い。もっともよく聞かれるのが「大まかな素案さえ渡せば、相手によってメールの語調を変えて、完璧に仕上げてくれる」という称賛と驚嘆のコメントであり、若いコンサルタントに仕事を頼むと画像はAIがきれいに仕上げたものが出てくることも日常茶飯事だ。

では、私自身がAIを積極的に仕事に生かしているかというと、否である。私はどちらかというと、デジタル技術懐疑派に属する-技術進化の恩恵は十分に理解するものの、その反面で失われる雇用や、人間らしさを心配してしまう。

特に、大量のデータを読み込ませる側(それも、現状では少数の営利企業に絞られる)の恣意性にアウトプットが大きく影響される生成AIについては、取り返しのつかない誤情報をまき散らす恐れなどから、規制が追い付かない技術開発と応用には、産業界が自制するべきだと考える。

一方で、まったくAIを使わないかというと、そうではない。狭い範囲のタスクでは使いたいし、メリットがデメリットを上回ると思う-では、その範囲とは何か?

AIを生かして取り組みたいタスクには、二つの条件を課すだろう;まず、そのアウトプットの質を自分で確認できること-例えば、フェイクでないか、著作権を侵害しないか、などをざっと調べられること-が、第一条件だ。100%の自信を持つことはほぼ不可能だとしても、サンプルチェックはするべきだろう。

知り合いのビジネススクール教授は、学生が生成AIを使って論文に必要な参照記事を調べたところ、複数の架空記事が挙げられていたと指摘している。生成AIが都合のよい記事リストを捏造していたのである。便利で一見無害なAI活用例として挙げられる他言語への翻訳も、自分がわからないからこそ頼みたいが、翻訳されたアウトプットの評価のしようがない以上、第一条件を満たせない。

そして、二つ目の条件はより大切だ。確かに生成AIへ調べ物や情報のとりまとめを頼むことは効率性の観点から魅力的で、自分でおおよそのチェックを掛けられる場合もある。しかし、その反面で、人間が調べたり、咀嚼したり、その作業中にふと新しい考えを思いついたりする「創造性の筋力」が失われてしまう。この筋力こそが、人間らしさの一側面と考える。果たして人間らしさと効率性と天秤に掛けたときに、常に効率性を取っていいものか?

では、これら二つの条件を満たすような、AIに頼みたい仕事とは何か?まったくないわけではない。特に自分にとって専門外の分野で、のちに人間の専門家によるチェックが期待できる情報収集がこれにあたる。

例えば、ある法的な問題に対処するとき、あらかじめAIに解決法のオプションを出してもらい、それをもとに弁護士に相談するほうが、白紙からアドバイスを乞うより時間も弁護士費用も効率的だろう。限られた自分の時間を専門外のリサーチに当てるよりも良さそうだ。

今日、生成AIの構成は、「なんでもできる」大きなベースモデルと、限られた分野に特化した専門的なニッチモデルの二段構えだ。そのうち大きなベースモデルがすべてを飲み込むことも考えられるが、まだその段階には至っていない。私が使いたいのは、専門的なニッチモデルのAIである。

私の考える枠組みでは、「メールを仕上げてくれる」AIは、よほど急いでいない限り第二の条件を満たさず、「きれいな画像生成」は著作権侵害を恐れて、第一の条件から使えないことになる。

このアプローチはAIの生かし方として非常に限定的だということは理解している。しかし、指数関数的に広がり、人類の運命を左右するような新しい技術を前に、「できるから」と飛びつく前に自分の考え方を整理することが大切だと考える。

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