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大学教育に「望まれること」とは? 〜世界経営者会議の永守さんの話を聞いて考えたこと

お疲れさまです。uni'que若宮です。


先日、日経新聞社主催の「世界経営者会議」というのをオンラインで視聴しました。

その中に、日本電産・永守重信会長の

新たな時代への提言~大学教育改革と企業経営

というセッションがありました。今日はそれを聞いて、改めて大学教育のあり方について書きたいと思います。


学歴や偏差値は無意味

永守さんは日本電産で多くの大卒人材を雇用されてきました。いまでは世界有数のモーター企業ですが、初期には知名度も低く新卒人材の確保にも結構苦戦したそうで、いわゆる「ブランド学歴」の学生はなかなか取れなかったそうです。

日本電産の業績があがり、優良企業として認められるにつれ、採用する学生の学歴はあがってきました。そういう意味で過去の採用学生の学歴には必然的にだいぶ幅があったわけですが、じゃあそういう人材が活躍しているか、をデータとしてみてみる「学歴は全然関係ない」ということがわかったとおっしゃっていました。

大企業時代、採用面接や新入社員研修のメンターをしてきて、これは僕も肌感としてすごくわかります。学歴とパフォーマンスが関係ないのには2つ原因があるとおもっていて

1)学歴がいいことのデメリット2)学歴は地頭の良さとは比例しないというのがそれです。

1)学歴がいいことのデメリット

学歴のデメリットの一つは、型を破れない人材になりがち、ということです。大企業時代に迎えたブランド学歴の新入社員たちの多くが、この罠にハマっていました。キレイに資料をまとめたり手順を覚えたりこなしたりするのはとても速いのですが、その先の「自分なりの考え」というのがなかなか出せない。

考えてみればそれはそうで、高学歴というのは「誰かが用意した正解」を当てるゲームで勝ち上がってきた人たちなわけです。そのゲームの過程で「どこかに正解がある」というマインドが染み込みすぎていて、「社会には正解はない、むしろ自分でつくるもの」といくら伝えても「正解を当てに行く」マインドから切り替えるのには苦労しました。


2)学歴は地頭の良さとは比例しない

とはいえ、試験で点数は取れたわけだからやっぱり高学歴の方が思考力が高い(=地頭がいい)でしょ?だから、型を外して開花すればやっぱり高学歴の方がいいでしょ?、と考える方も多いでしょう。

しかし、経験からいうと学歴と地頭の良さは、これまたあんまり比例しません。

先日、こちらのエントリが話題になっていましたが、ぶっちゃけ今の日本の受験生度では、地頭の良さよりも教育環境やその格差の方が、はるかに学歴に影響していると思います。

僕は青森県の生まれですが、中学がいわゆる「ヤンキー校」で、同級生は卒業するとテキ屋か出稼ぎか工業高校へ行くのがマジョリティで(その半分くらいは中退する)した。

一方、大学時代に塾講師のバイトをしてみて、都心の中学生が解いている問題に唖然としたものです。もちろん本人の努力はありますが、おそらく教育環境を入れ替えたら、結果は大きく変わってしまうでしょう。学歴は地頭の良さ以上に(本人のせいでもおかげでもない)教育機会によって大きく左右されています。


「学歴」というブランドを得るプロセスで枠や型に囚われがちになり、しかもそれは能力というより教育機会の格差によって決まる。そういうケースを色々みてきたので僕も永守さんと同じく「ブランド学歴」の意味はこれからどんどんなくなってくる、と思っています。


大学は企業が望んでいる人材を育成すべき?

永守さんはブランド大卒を沢山採用してかなりがっかりされたそうで、大学を出ても「英語喋れない」「専門性はない」「名刺の出し方もしらないし初等教育からしないと使えない」とおっしゃっていました。

永守さんのすごいのはそういうのを見て黙っていず「批判しているひまがあったら自分でやろう」と私財を投じて大学をつくってしまったところです。

そこでは、徹底して「企業が望んでいる人材」を育てている、といいます。

試験のテクニックを学ぶのではなく、社会に出て役に立つスキルをつける。「英語は学問じゃなくグローバルに活躍するため必須のツール」だから授業はすべて英語でやる。

永守さんはいいます。今の大学は「どういう人材が望まれているのか?」ということを考えもしない。マーケットに求められる価値をつくるという点では大学も企業と一緒、それを考えなきゃだめ、と。

じつは永守さんのこういった大学への批判は、少し前に炎上していました。

僕も大学が今のままで良いとはおもっていないのですが、ただ「企業」が求める人材を促成栽培するのが「大学」か、というと僕は少しちがう考えを持っています。


まず、僕も「教育を社会と接続する」ということは重要だとおもっていて、大学での教育が(その大半が学部卒で就職するにも関わらず)「仕事」とまったく切り離されていることはやはりいいとはおもっていません。

日本では「学生の本分は勉強」と言われ、アルバイトやインターンをも「遊んでいる」と考える大人(親)も多くいます。結果学生のうちは社会との接点がなく、いわば無菌室のようなところで育てがちです。で、社会に出ると「社会人一年生」としてゼロから「社会人」になる。大学と社会はまだまだ分断されているのです。

しかしこれは狩りを教わらずに動物園で育てられた動物を急に野生に放つようなものなので、そのままでは餌がとれずに秒で死んでしまいます。「新卒一括採用→新入社員研修」というのは狩りができない間の庇護のためのモラトリアム期間かもしれません。


以前、こちらの記事でも書いたのですが、

大学教員には「研究者」を志向している人が多く、いわゆる「社会人経験」が少ないのもあって、野に出てからのことを教わる機会はやはり少ないようです。


「未来をつくる力」はマーケットニーズでは測れない

その意味では、永守さんのおっしゃるように大学は「企業が望んでいる人材」や「マーケットニーズ」をもっと考えるべきかもしれません。

しかし、僕は永守さんのいうように「名刺の渡し方」などのビジネスマナーを教えることが大学の役割だとも思いません。もちろん、それに特化した教育機関もあっていいと思いますが、専門学校や職業訓練校もあるわけで、大学はそれとはちがうことを教えてもいいと思うのです。では大学はなにを育てるべきでしょうか?


アート思考でもよく言っていますが、「ニーズ重視」ばかりになると「今求められているもの」や「課題解決」に寄りすぎてしまいます。大学が企業のニーズを向けば、「いま企業が求めている人材」をつくることは可能でしょう。

しかしそれは「既存の企業のための人材づくり」にフォーカスしてしまうことでもあります。「既存の企業のニーズ」は、ある種「過去」でもあるのです。実際、「名刺の渡し方」なんかはあと10年もすればまったく意味の無いスキルになってしまうでしょう。

大学がつくるのは「未来」であるべきだと僕は思います。そしてそれは「過去」や「今」成功している企業に合わせることではありません。

「未来をつくる人材」はもしかすると、今の企業にはまったく見向きもされないかもしれない。でもそれでいいと思うのです。

また、そもそも企業での活躍以外にも、アーティストや学問的探求者、政治家、社会起業など社会変革に貢献する可能性がある人材のあり方はたくさんあります。そういう人にすべからく「企業人」としてのビジネスマナーを教えるとしたら、それはやはり無意味でしょう。


社会とは接続しつつ、しかし企業のニーズに合わせるのでもない。では大学は学生のどんな力を育むべきでしょうか?


「自ら探求する力」と「社会の中に価値付ける力」

僕が大学に期待したいのは、まず「自ら探求する力」を育むことです。

大学が高校までの教育機関とちがうのは、研究者が教鞭をとっていることです。本来、研究というのは、「世の中に自分なりの新しい視点を加える」ということであり、それはつまり、人に教わるのではなく「自らつくる」しかないものです。社会人経験がなくとも大学教員はそういう「探求のプロ」だと僕は思います。

そこで教えられるべきは「正解を教えて、学生がそれを学ぶ」という「お勉強」ではなく、「正解がないことを教え、学生が自分なりにそれをつくる」という「探求」のモードだとおもうのです。


しかし「探求」だけでは十分ではありません。もう一つ大事なのが「社会の中に価値付ける力」だとおもうのです。「価値付ける」というのは、シンプルにいうと「値段」をつける、ということです。

自分の探求に「いくらの価値」があるのか?


こういう質問がなされることは日本の教育においてはほとんどありません。しかし、「勉強」はお金を払ってするものかもしれませんが、その先の「探求」は、ほんとうに新しい価値を生み出しているなら、本来お金を得られるものだとおもうのです。

教育の場でお金の話をすると拝金主義のように疎まれたり、探求は金のためではない、という方も多いかもしれませんが、好むと好まざるとにかかわらず、実社会は「価値の対価」として収入が得られるという仕組みから成り立っています。この仕組みを知らないと、いずれにせよ食っていけなくなりますし、研究も続けていけなくなります。サステナブルにならないのです。


今の大学にはこの「価値付け」の観点がすごく欠けていると思います。僕はいまアート界ともいろいろとやっていますが、日本の美大も同様の課題があるとおもっていて、「自分なりの探求=つくる」ことは教えてもそれにどう値付けし、どうお金につなげていくか、ということはあまり教えてくれません。


誤解されがちですが、値段をつける、ということは自分の価値を自分で宣言する、ということであり、誰かが望む価値におもねる、ということではありません。(むしろ逆で自分で価値付けをできない人ほど、他人におもねってしまうのです)

あくまで大事にするのは「自分の探求」であっていい。まずそれがあって、それを信じるからこそ、その価値はいかほどなのか、それをちゃんと意識し、伝え、どういう対価をえるのか、考える。

また、値段をつけるといっても今すぐお金になるものをやろう、ということではありません。10年先、20年先になってやっとお金になったり、価値が認められるものもあるでしょう。しかし本当に長期的な価値があるなら、それを求める人はいます。たとえば長期的な投資をする人たち(学術機関や企業のR&Dなど)が対価を払ってくれるはずではないでしょうか。


これはアート思考の「自分起点」にまつわる誤解ともよく似ています。アート思考的な「自分」起点というのはただやりたいことをやればいい、という意味ではありません。なぜなら「自分」の価値というのは自分が一番よくわかっていないからです。

能に「離見の見」という言葉があります。

見所より見る所の風姿は、わが離見なり。しかれば、わが眼の見る所は我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、 すなはち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。 わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。(世阿弥『花鏡』)

僕は「自分なりの探求」もこれと同じだと考えています。自分がいくらすごいと思っても、それは自分の目からみただけの視点(=「我見」)にすぎないからです。それを観客(社会の目)から見直し、舞台の上で位置づけてはじめて、「自分」の姿がわかってきます。


「いくらこれはすごい発見だぞ」と思ってもすでに誰かがした発見かもしれませんし、ありふれたアイディアかもしれません。そういうもののつながりの中に置き直してみた時にほんとうに「ユニークな価値」を持っているものでしょうか?

それを社会の中で価値付けられてはじめて、「自分らしい」そして「自分ならではの」探求だと言えるのです。


大学は社会と切り離された教育ではなく、また、企業に求められる今のスキルを身につけるものでもなく、未来に向けて「自ら探求する力」とそれを「社会の中に価値付ける力」を磨く場所であってほしいとおもいます。

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