「理想の家族」は捨て去って「現実の自分」の中に家族を作り出すという発想へ
日付変わって昨日5月19日の夕方、日本中を揺るがした大ニュースが飛び込んできました。
ご存じの通り、星野源さんと新垣結衣さんの「逃げ恥婚」のニュースです!
ツイッターのトレンドはまさに上位をすべてこの話題が独占。日本のみならず、中国版ツイッターの「ウェイボー」でも検索1位になった。
個人的にも、このニュース聞いた時一瞬気を失いましたw
いや、おめでたいのだけれど…、星野源さんは素敵な方なんだけど…、ガッキーには幸せになってもらいたいのだけれど…あ~、誰かと酒飲みながら語り合いたい!…そんな気分です。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、本記事は以下のお題に関して書いたものです。#理想の家族
「理想の家族」というお題ですが、そもそもこの一般社団法人Public Meets Innovation(通称PMI)を立ち上げた代表は石山アンジュさんです。最近では、テレ朝の「モーニングショー」のコメンテーターもされています。個人的に、NewsPicksの動画でも以前より拝見していましたし、彼女の著書「シェアライフ」も買って読みました。以前、彼女のクラハを傍聴していたら、いきなり彼女から呼ばれてお話させていただいたこともあります。「荒川さん、前からお話したかったんです」と、うれしい言葉をいただきました。なんだかんだ初対面でもお互い以前から知ってたわけです。
彼女自身も使っていますが「新しい家族の形としての拡張家族」という概念は、僕も2017年に上梓した「超ソロ社会」の中で書いてあることで、通じるものがあります。
彼女が代表をつとめるPMIの考え方はこちらのスライドを見るとよくわかります。
僕自身、課題認識として抱いていることは基本的には従来型の親密的なコミュニティである「家族コミュニティの崩壊」です。それは、未婚化や非婚化、あるいは離婚の増加などによってももたらされるし、家族であってもお茶の間でみんなが同じテレビを見るような団らんの崩壊でもあります。実際、2040年には、かつて標準世帯といわれた「夫婦と子」世帯は2割まで激減します。
かといって、従来の家族をいかに存続させるか?ということには全く興味はありません。所詮無理だからです。その理由については、一冊の本にまとめてあるのでぜひ「超ソロ社会」または「結婚滅亡」をお読みください。
要するに、石山さんの提唱することには共感はするのですが、今回のお題やは彼女からではなく他の方からのもので「理想の家族とは?」とあることにやや違和感を覚えるのです。
家族をイノベーションするのであれば、もはや「理想の家族とは?」という問いは必要ないのではないかと思うからです。
そもそも僕はこの「理想」という言葉の使用は気を付けたほうがよいと思っていて、これは多くの人々を不幸にする毒薬になりかねません。
アドラーは『現在の自分を変えたり、よりよい世界を創ったり、より大きな可能性を心に描こうとする私たちの能力は自己理想の中にありますが、それと同時に、私たちが自分自身を失望させ、生き地獄に住むようになり、夢に描いていたものを達成していないことで、自分を責めてしまうのも自己理想のせいなのです』と語っています。
まさにその通りで、「理想の〇〇」というのは生き地獄への入り口でしかないので、言葉として使うべきでもないし、概念としても不要だと思っています。
何かを獲得するために努力すること自体を否定しませんが、この「獲得していないもの」を切望するあまり、それを獲得できていない自分に対して自己嫌悪や自己否定してしまうのもまた人間なのです。すべての人間が努力して何かを達成できるわけないし、むしろ達成者は少数です。大部分は達成できない人たちという事実を忘れてはいけないと思います。
石山さんは「つながり」を割とリアルな居場所やリアルな人とのつながりにおいて実現されようとしています。それはそれで重要です。彼女のやっている大分のシェアハウスはいつか行きたいと思っています。
ただ、誰もが同じ屋根に下で共同生活できる性格とは限りません。リアルな人との付き合いが苦手な人もいます。ツイッター上では能弁なのに、人の目を見て話せない人もたくさんいます。コミュ力のある人には存在自体が透明化されて、「そんな人いないだろ」と思ってしまうかもしれなすですが、世の中には絶望的にコミュ力のない人もいるのです。
僕は、そうした人たちのためにも、リアルな居場所やリアルな人とのつながりだけではない「接続するコミュニティ」を提唱しています。同居や所属やいつも一緒にいなくてもコミュニティは作れるのだという考え方です。
「接続するコミュニティ」とは、リアルだけではなくデジタル上にもある茶室みたいな接続点です。茶室とは一期一会の場でもあります。趣味の場や飲み会などてリアルに会うことも当然アリですが、互いに本名や素顔を知らない同士でのネット上でのやりとりも僕は茶室だと思っています。
茶室は居住空間ではありませんが、誰かと一瞬刹那共有する接続点でもあります。一生一度しか接続していなくても、その点が本人にとってかけがえのないいものになる可能性もあります。
冒頭のガッキーの結婚話とこじつけるものではないのですが、「逃げ恥」の共演者石田ゆり子さんがこんな言葉をインスタにあげています。
「びっくりして
鼻血が出そうなんですけど。
涙目なんですけど
すっぴんなんですけど
わたしのことはどうでもいいけど、
百合ちゃん、役のままの気持ちです。
おめでとう
こりゃたいへんなニュースだ。」
失礼ですがもとってもかわいらしい方ですね。
思えば、ドラマや映画でその制作期間だけ一緒に仕事をするというのも、「接続するコミュニティ」のひとつです。それは、ある意味「拡張家族」でもあると思っています。役柄として夫婦を演じたとか親子を演じたという話ではなく、ある目的のためにそこに集い、何を協力して成し遂げたという行動体験の方です。
接続する機会と接続する人間を増やせば増やすほど人生は豊かになる。芸能人がデビュー以降どんどん魅力的になるのは、こういう接続する機会と人間が多くなっていくからなんだろうと思っています。逆にいえば、どことも誰とも接する機会のない人間が知らず知らずのうちに腐っていってしまう。
互いに知り合いである必要もないのです。前述した通り、石山さんとはクラハでお話するまでまったく接点がありませんでした。しかし、それ以前に、偶然にも互いに記事や著書を読んでいたりして、接続していたんですよね。
リアルに出会っていなくても、人は人と接続できる。だから、本を読むことも「接続するコミュニティ」になりえます。
社会学者ベックの言うように、今後「個人化する社会」は不可避。だからこそ、個人と個人との出会いは貴重になります。今後の家族の在り方というのは、まさにそこにあると感じていて、血縁や地縁や知縁や同居すらも条件にはならず、接続した場や人を通じて、どんどん自分の中に新しい自分を生み出していくこと。つまりは、「接続する」という手段を通じて、自分の中に新しく生まれたたくさんの自分に囲まれた家族を作るということなんです。「人とつながる」とは「たくさん生まれた自分とつながる」ということです。
新しい自分とは必ず誰かと接続することでしか生まれません。そう考えると、たった一度しか会っていない人間でも大事に思えるのではないですか?接続を通じて自分の中に新しい自分を産むということは、結果的に他者に対して思いやりと感謝の気持ちを持つことにつながります。
家族が家族だけしか守れない、信じられない、という状況にどんどん追い込まれていくことは、結果として「一番守りたかった家族、一番大切にしたかった家族というものが、そう思えば思うほど崩壊していく」ことになりかねません。これは、中野信子さんとの共著本「一人で生きるが当たり前になる社会」の中でもお話していることです。残念ながら、日本では親族間の殺人が一番多いということも事実なんです。今後、老々介護が顕在化していけばますます増えるかもしれません。
家族を考えるということは、まずその前に個人を考えること。家族があって個人があるのではなく、個人があって家族が存在するのだから。そのためにも、個人が自分と向き合うことが必要になってくるのではないかと思います。自分自身が自分を見ていない人があまりにも多い。「自分の外側で誰かがいさえすれば安心だ」というのは幻想です。配偶者も子どもも家族も友達も、あなたの安心のための道具ではないのです。
「これからの家族を考える」とは「今そこにいる自分自身を見つめなおす」ことからなのだと思います。そこには理想などなくていい。自分自身を盛ってごまかす必要などないのです。ただ、現実としての自分にまずそのまま向き合う。自分の中に誰がいますか?さびしいのは、周りに人がいないせいではありません。あなたの中のあなたが足りないからです。
僕の言う「拡張家族」とは、どちらかといえは「自分の拡張」なのです。
そうした視点で何かお手伝いできることがあれば、PMIの皆さん、石山さん、いつでもお声がけください。