ディスコースとは?ー〇〇について議論できる土壌がある。
8-9月、日本の大学とヨーロッパの2大学の学生たちが参加するワークショップを行いました。デザインを学ぶ学生がメインです。グループに分かれてリサーチや討議をしてもらい、それを各代表が発表しました。
その際、あるグループのプレゼンで日本の学生が「この項目は調べても適切な情報が見つからなかったので、飛ばします」と発言したら、ヨーロッパの先生2人が烈火のごとく厳しい言葉を発しました。「分からないことを、どう補完していくか、どう新しく作り出していくか、それがクリエイティブ領域の仕事ではないか!」と。
これは日本の先生も学生に同様に指摘する点ですが、その声の厳しさが違うと感じました。不透明のところで、どれだけ自らの考えを投入するか。このポイントに対する自覚の度合い、または期待値の違い、そうした差異が文化間であるのではないかと思います。
さて、先週のミラノは気候変動対策のカンフェランス続きでした。環境問題といえば、確かなことが言いにくいテーマの筆頭でしょう。
週の前半はYouth4Climate と呼ばれる政府主催の会議。世界100か国以上からおよそ400人の若い人たちが参加しました。週の後半は、11月に英国・グラスゴーで開催されるCOP26(気候変動枠組条約締約国会議)の準備会議が開かれました。他方、一部、若い人たちと警察の衝突もありました。
若い人たちの会議には、アメリカ先住民の人も参加しています。彼は一つの民族や国旗によって世界が成り立っているのではないと強調します。誰かの行為は誰か知らない人を巻き込むのだ、と。
それをスウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥーンベリさんも静かに耳を傾けています。
多くの媒体で報道されたように、グレタさんは、大人たちは言葉ではいいことを言うが実行に移していないではないか、と国際機関や政府を辛口に批判します。そして金曜日にはミラノの中・高校生たちと一緒に街頭デモを繰り広げました。世界どこでもグレタさんへの期待と反感の両方があります。当然ながら、彼女も抵抗だけしているのではなく、前述のように他人の主張も聞きます。
これらをみていると、少なくとも、「自分たちには、次世代は存在しないかも」と思う若い人たちが気候変動を語る術を獲得しつつあるのは確かでしょう。グレタさんの攻撃的な部分をクローズアップさせ、若い人たちのバラエティーある意見をグレタさんの一部を拡大しただけの姿で代表させてしまうのは賢明ではないです。
今回の記事は、冒頭のエピソードを踏まえながら、「何かについて議論できる素地をつくる」をテーマにします。キーワードはディスコースです。
気候変動について語れる若い人が増えている
上記のYouth4Climete開催の前日、セイブ・ザ・チルドレン・イタリア主催で、やはりアジア、アフリカ、ヨーロッパ、南米の若い子たちが参加するオンラインシンポジウムがありました。
バングラデシュとイタリアの環境大臣も参加していましたが、このシンポジウムを見ていて感じたのは、若い彼ら/彼女たちがことの他、攻撃的ではないという点です。極めて多面的にサステナビリティを捉えています。即ち、環境と人権の両側を視野に入れた洗練された議論をしています。
「グリーンウォッシュ」という表現があります。環境に良いことをやっている風を皮肉っており、まさしくグレタもここを衝いています。そして、もう一つ、若い人たちが盛んに使う言葉があります。「ユースウォッシュ」です。若い人の意見を聞いてみようね、若い人たちにやらせよう、と持ち上げるのを若い人たちが苛立ってみているのですね。
「ミレニアル世代だ!」「Z世代だ!」と大人が大きな声を出せば出すほど、「じゃあ、もっと信頼してよ!」「それ、ビジネスのネタにしたいのでしょう?」と反撃をくうわけです。
こうしたなかで、「グレタみたいな子に何が分かるのか?」あるいは「グレタに大人が振り回されている」とグレタ現象を批判している大人たちがいる、との状況があります。
そこで大人たちには「気候変動+若い世代」をセットで議論できる学びが求められるのではないか?と思うのです。きっと環境+若い世代のディスコースを成立させる基礎作りとの狙いも、Youth4Climateにはあったのでしょうが、継続的な試みになって欲しいです。
ラグジュアリーはさまざまな物議を醸しだす
領域を変えましょう。ラグジュアリーの新しい意味との動向がよりはっきりしてきています。宣伝じみて恐縮ですが、11月末から3か月、下記のセミナーを開催します。
19世紀、王族や貴族に憧れた新興ブルジュワジーの欲求と必要から生まれた英国やフランスのラグジュアリーブランドがあります。それがヨーロッパ外の大衆の必要に移行したのが20世紀後半です。その一部に米国や日本の大衆が嵌っていました。今世紀に入ると、中国を筆頭に新興国の人たちが参入してきます。
並行して、フランスのコングロマリットなどはラグジュアリーよりもプレミアム的なマーケティング戦略に走り、一方、ファクトリーブランド+ソーシャルメディアの加速で、数々の「自称ラグジュアリー」が増えてきました。
実をいえば、ラグジュアリーのイノベーションは20世紀後半の大衆化だけでなく、もう一つ、20世紀半ばのイタリア企業の参戦もあります。フランスが貴族性を重んじ、ラグジュアリーを細かく定義して排他性を強調したのに対して、イタリアは日々使うもののラグジュアリーと職人仕事にウェイトをおくインクルーシブな方向のイノベーションをおこしたのです。
そして、2010年以降、殊にこの数年、ラグジュアリーでイノベーションがスタートアップを中心に起こりつつあります。セミナーでは、この変化にフォーカスしますが、参加者が「ラグジュアリーとは何か?」を議論できる力をつける端緒になっていただきたいと考えています。ただでさえ、ラグジュアリーの定義は百家争鳴です。言ってみればラグジュアリーディスコースへ自信もって参加できるようになってもらえれば、というわけです。
実は、このようなラグジュアリーディスコースの意義は、ぼく自身、次に述べるデザインディスコースをリサーチするなかで確信に変わっていきました。
デザインディスコースは議論のありさまに意味がある
意味のイノベーションを提唱しているロベルト・ベルガンティによれば、デザインディスコースとは、社会・技術・文化などの多数の側面からさまざまな事象やモノについて意味などを論じ合う非公式のネットワークです。
アカデミアの専門家、メディア、ビジネスパーソンなどさまざまな分野の人と知的交流を行い、それらの意見交換を踏まえ、事業者なら事業者、デザイナーならデザイナーが自らの観点で統合した考えをもつに貢献します。
ここから意味のイノベーションを導くビジョンが生まれるのだ、と20世紀後半の栄光のイタリアモダンデザインの生成プロセスを経営学的に分析したベルガンティは語るのです。
イタリアデザインの成功は意味のイノベーションに起因し、それはデザインディスコースが有効に機能したからです。有効に機能したのがなぜかといえば、非公式なネットワークを「適度に」活性化させるデザイン文化があったからでしょう。
専門家であっても、専門家でなくても、誰もが出入り自由のネットワークがあり、それらの人が対話をするに「適当な」テーマが、(カオスではない)不快にならないようなレベルで散らかっている。
そのネタを気楽に拾って語り合ううちに、知的ヒントが個々のなかに蓄積されて熟成を待つ状態になるわけです。常に行為を前進させるためのロジックの構築を優先させながらも、決して行動を急がせないのです。
冒頭のエピソードに戻りましょう。ワークショップの最終目標はデザイン文化とは何か?を自分なりに解釈できること。それなのに学生は知識のつながりだけで自分の解釈を示そうとしたために、途中で行き詰ったのです。つまり大きく広がるはずの話を、その学生は自分の範囲を自ずと狭めてしまったのです。
本来、自らの智恵をフルに活用し、該当する知識や情報がないとなれば、何らかの仮説なり構想を提示していくと期待されました。ディスコースとは、自らのものの見方を披露しながら何かについて議論する機会の連なりでもあります。一本調子ですべていくはずがありません。
ユーモアや笑い、脱線は当たり前です。
人を緊張させない暖かい空気があり、自在に丁々発止できる。これがデザインディスコースを支えるデザイン文化になります。もしかしたら、学生が緊張するようにしてしまったのか?との反省もしましたが・・・。環境+若い世代、ラグジュアリー、デザイン、これまで述べたのはそれぞれに話題の対象が異なります。しかし、ディスコースとは、違った領域と一見思われる議論を別のアングルから共通点を探りながら論じることだ、とも考えてみてください。次の展開がみえてくるはずです。
写真©Ken Anzai
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