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最終的に残るまちは、「地域文化」をもったまち

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胸につきささった言葉。「311から6年半」を歩いて、宮城県内のある人から、「地域創生は、人口を増やすこと、人口が減ることを止めることだけではない。人口がまちの存在理由だけではない。最終的に残るまちは、『文化』をもったまち、魅力を継続的に育てられるまちではないか」とお聴きした。

巨大津波に呑みこまれ、すべてを流されたそのまちの再生において、地域の人たちが集まり話しあい、新たなまちの中心に「神社」を置くことを決めたという。文化とは語源の「カルチャー」=「カルチベイト(耕す、栽培する)」という意味で捉えるべきだということを痛感した。

「まち全体がサーキットのピットのようになります」

気仙沼は海とともに生きる。船が気仙沼港に入港すると、まちの様々な産業が一斉に動きだす。

生鮮カツオ水揚げ21年連続日本一を続け、多くの市民はなんらかの形で水産業にかかわる。気仙沼ピットを象徴するような興味深いカレンダーである。その年に気仙沼港に入港する予定の船名がずらりと並ぶカレンダー。地域交通を担うタクシー会社が「目指せ日本一」を掲げるが、地域ならではの産業、その地域にとって「必然性」のある産業を軸に地域における産業連関を強くすることが地域経済を強くする基本だということを再確認した。

「神様は自分たちを助けてくれなかった」

衝撃的で直接的な言葉だった。地域の復興に向け地域活性化に取り組まれている気仙沼の女性の言葉だった。海とともに漁業に生きる気仙沼では家族、親族が助けあい、それぞれが役割分担して海の仕事をしてきた。だからこそ、正月、小正月、節句、盂蘭盆、十三夜、恵比寿講、冬至など、自然とともに、季節とともに、神への信仰、行事、食を、日常の生活レベルに刻みこんだ地域文化をつくりあげた。代々語り継がれてきた「伝統的な生活文化」を継承していくことと、漁業を通じて日本各地と交流し各地域の文化を交らせたものと、気仙地区の自然環境や歴史を汲みながらその時代時代に合理的に翻訳して変えていったものとを重ねあわせて、平安時代から深く長く刻まれた生活文化の変遷と、“変わらぬ、そして変えぬ”ものやことを育んできた。気仙沼を歩くと、平安文化や近畿の文化を発見できる。

「残念ながら、伝統的文化の継承はむずかしい」

と気仙沼の彼女は呟く。三陸沖の津波は過去何度もあった。大きなダメージをうけつつ、乗り越えてきた。漁業という産業をもとに、神とともに生きてきた生活文化は、何度も「編集」を繰り返しながら継承してきた。しかし今回その「生活文化」の継承が、巨大地震・津波に伴う地域産業の影響、家族という形の変化、人口移動・減少、高齢化のなかで、難しくなりつつある。

震災後、「この行事はもうしなくていい」と一族の長が宣言し、その行事から解放された家もある。豊かでボリュームのある生活文化の遂行は時間的にも肉体的にも限界だった。しかし、これからを生きる地域として、必要なことと必要でないこと、残すべきこととそうでないことを仕分し、新たな「地域の生活文化」をつくりなおすことが必要ではないだろうか。地縁、血縁だけではない関係性のある地域コミュニティをデザインしなおすために、ハードウェアの再興だけでなく、「地域文化」の再構築が求められるのではないだろうか。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23150360W7A101C1000000/

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