見出し画像

「やめる」ことが未来を増やす? 〜「やめる」の価値と「やめる」を阻む3つの誤謬

お疲れさまです。uni'que若宮です。

昨日こんなツイートをしたところ、想像以上の反響をいただきました。

たくさんの方に共感をいただけたということだと思いますが、それは裏を返すと、予想以上に多くの方が「やめたくてもやめられない」という状況を抱えている、ということだと感じました。

満員電車の通勤、不毛な手続きや書類の提出、項目が増え続ける目標設定やセキュリティチェックリスト。人付き合いのしがらみやSNSでの競争。

やめればいいのにやめられない、ということは「やめる」に対してなにかネガティブな抵抗があるということです。

その原因として僕は3つの誤謬があるのではと思っていて、日頃からこの罠にはまらないように気をつけているので、そのことを書きたいと思います。

①惰性の誤謬

仕事でも生活でも、「やめる」ことの第一の敵は「惰性」です。

以前こんな記事を書いたのですが、

左から2番めは速度vで動き続けている状態。「等速直線運動」と言うやつで、これは実は物理的にはさきほどの静止と同じ状態です。一見すると動いているけれども加速度は0なので止まってるのと一緒なのですね。運動方程式によると、力Fは加速度aに比例しますから、加速度が0だと力も0、つまり何もしていない状態です。(中略)
行動していない、というと家でごろごろしているみたいですが、注意しないと混同してしまいがちなのが、既定路線をただ続けている状態もまた行動していない静止である、ということ。(中略)
定時出社というのはまさに等速直線運動のようなもので、繰り返しているだけで力は0です。そして等速直線運動には別の名があります。「惰性」です。

「惰性」は、「一見すると意味のある行動をしているように見える」という錯覚を引き起こします。

これに対し、「やめる」は動きが止まるように見える。なのでどうしても後ろ向きで消極的な態度として思われがちです。しかし、実際には「やめる」ことの方がパワーがいります。

同じように誤解されがちなのが、一番右の、減速している状態。進次郎さんの育休とかのときもそうでしたが、何かをやめたり休んだりすることが怠けているように思われ、一見「行動」とは真逆にみえる。進次郎さんに対して「議員として高い給料もらってるんだから仕事しろ!」というような批判がありましたが、惰性で出社しているのを見直してむしろやめる方にこそ加速度があるし、力が必要なのです。そして「仕事=力✕距離」なので、力が0な人よりはそれってよっぽど仕事してるんですけどね。

動いている方が力がいらず、止まる方が力がいる

これがちょっと逆説的なので、誤解されがちなのです。「やめる」というと「やりたいくないわけ?」とか「逃げるわけ?」とか言われたりしますが、むしろ惰性でやり続けている方が「思考停止」であり、考えたり行動したりする「力」が無くしていることはよくあります。

「やめる」というのはとてもアクティブな行為だと、僕はおもいます。

②否定の誤謬

次の「やめる」の敵は「価値の否定」だと思われることです。

たとえば「はんこ」なんかもそうですが、「やめる」というと、「価値がないといいたいわけ?」という反論があったり、「事業をやめる」というと始めたこと自体が「失敗」だったみたいに思われがちで、なかなかやめられないのです。

しかし、これは「価値の時間変化」を考慮できていません。

「価値」というのは無時間的に一定なものではなく、時間で変化します。かつてはものすごく価値があったことでも、時代がかわれば価値がなくなったりします。しかし現時点で価値がなくなっていたからといって、過去の時点において無価値だったということにはなりません。

たとえば赤ちゃんの時にすごく好きで遊んでいたおもちゃがあったとして、それを全部取っておくわけにはいきませんし、それを捨てるからといっておもちゃの価値を否定しているわけではありません。ただ、いまそれが必要かというとそうでもない、というだけです。断捨離やkonmariもそうですが、「捨てる」とか「やめる」というのは改めて自分の棚卸しをして、その時点その時点で価値を見直すことなのです。

あるいは逆に、そういう価値の時間的見直しをしているからこそ、古いものや変わらないものの中に新しい価値を見つけることも出来ます。「はんこ」だって強制じゃなくなった時に新しい価値が生まれるのではないかとおもっています。僕は「やめる」というのは価値判断を動的にすることだと思っていて、「やめる」は「否定」ではなく、「価値のアップデートのプロセス」だと考えているのです。

③切り捨ての誤謬

②でいったように価値には時間変化がありますから、仕事でもかつては必要だった業務が今はいらなくなる、ということが当然起こります。

紙で提出したものをチェックする仕事は、ペーパーレスになってデジタルデータでマシンによって自動チェックされれば必要なくなります。

するとここで「仕事を切られる」という抵抗が起こります。「はんこ」もそうですが、その人達の生活を奪うことになるから「やめる」ことができない。「やめる」ということがただの「切り捨て」のように思われてしまう。

しかし、「やめる」ということはただの切り捨てではありません。経営の神様・ドラッカーはこんな事を言っています。

イノベーションの戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。イノベーションを行う組織は、昨日を守るために時間と資源を使わない。昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる

昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる

そうです、「やめる」ということはただの切り捨てではなく、「新しいもののために解放」することなのです。

これに似ている誤解として「無駄」と「余白」の履き違えもあります。働き方改革でもそうですが、無駄はなくしていいけれども、それによって余白がなくなってしまってはいけない、と僕はおもいます。
「リストラ」というのは本来「再構築」であるのに日本ではなぜか「人員削減」だと捉えられがちですが、リソースを見直し、あたらしいことに割り当てることです。紙で提出したものをチェックする仕事がなくなるからペーパーレスにしない、のではなく、ペーパーレスにして時間を空けばその人たちであたらしい仕事や価値を生み出すことができるはずで、ただ切り捨てるのはその可能性も一緒くたに捨ててしまう怠慢だと僕は思います。

「やめる」という選択は、未来を減らしたり奪ったりすることではありません。むしろ過去から時間や人という資源を解放して余白を、「未来を増やす」ことだと思うのです。

「やめる」の価値転換

「やめる」というと消極的に思われるので、なんとなく続けてしまう。
「やめる」のは価値の否定のように思われる。
「やめる」と切り捨てが起こると考える。

どれも「やめる」をネガティブにとらえていますが、これまでに見たように本来「やめる」は

「やめる」とは変化を起こす積極的行動である。
「やめる」とは価値のアップデートのプロセスである。
「やめる」とは呪縛からの解放であり、未来を増やすことである。

というポジティブな価値を持ちます。このように「やめる」を「積極的」な「アップデート」として「未来」につながるものと捉え直すことが大事だと思うのです。

「いつもしているこの行動はただの惰性になっていないか?」「価値を今の目で見直してみるとどうだろう?」「この時間の新しいチャレンジをする余白がなくなっているのでは?」

できるだけポジティブな「やめる」を念頭に置きながら、僕は常に自身の生活や仕事を見直してみるようにしています。通勤、会議、手続き、持ち物、タスク、飲み会。コロナウイルスも、色々なことを「やめる」よいきっかけかもしれません。

そしてそれは結局のところ、自分らしさやしなやかさをもって生きる、ということにつながる気がするのです。

自著『ハウ・トゥ・アート・シンキング』でも引用していますが、僕の考える「やめる」はアート思考的な「初心」に近いものです。

「初心忘るべからず」とは能を大成した世阿弥の言葉です。一般には初心者の頃のフレッシュな気持ちを思い出そう、という意味にとられていますが、能楽師の安田登さんによるともうすこし深い意味があるそうです。

”初心の「初」という漢字は、「衣」偏と「刀」からできており、もとの意味は「衣(布地)を刀(鉄)で裁つ」。すなわち「初」とは、まっさらな生地に、はじめて刀(鉄)を入れるこ とを示し、「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なのです。”

「アート・シンキング」は赤ちゃん期の0→1的な思考ですが、たとえるなら「初心」の思考だとも言えます。大人になるに従いまとったたくさんの「他分」を捨て、改めて「自分」に向かうプロセスだからです。そして世阿弥の「初心」にはこういう続きがあります。

"この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。 老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし 世阿弥『花鏡』"

生活でも仕事でも、個人でも企業でも、始めた時点ではワクワクし、フレッシュな価値をもっていたものでも、いずれ角質のように固くなり、自分らしさや変化を阻害したり、あるいは贅肉となって重しになり、軽さを奪ってしまいます。

「やめる」ことはその殻や贅肉を断ち切り、身体を軽くしてしなやかに新しい自分をスタートするために不可欠な行動です。「やめる」は新しいチャレンジと表裏なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?