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アート思考的コミュニティ論 〜いびつさを生かすセーフティネットとしてのコミュニティ

お疲れさまです。uni'que若宮です。

先週、2つのコミュニティイベントにお招きいただき、アート思考についてお話しました。その中で参加者の方とお話して、アート思考的な観点からコミュニティにとらえ直す機会となったので、今日はアート思考とコミュニティに関して書きたいと思います。

「中動態」とコミュニティ

1つ目のイベントはコミュニティについての学びの場・コミュラボオフ会

ありがたいことに参加者の方がしっかり著書を読み込んでくださっていて、非常に熱の高く濃いディスカッションとなりました。

イベントの素敵なグラレコも↓

主催のコミュラボさんが当日の詳しいレポートもあげてくださってます。

いつもコミュニティのことについて考えている、ご自身もコミュニティ運営者の参加者も多いので、コミュニティについても色んな角度から質問が出たのですが、この日特に盛り上がったのが、アート思考の「中動態」というキーワードでした。

「中動態」とは能動態でも受動態でもない、第三の態です。西洋的・近代的な思考では能動/受動という考え方が浸透しているので、「能動的に動く」というと主体となる人が状況をコントロールするような印象がありますし、そうではないひとは「受け身」と言われたりします。

しかし、中動態はそのどちらでもありません。主語と目的語があるようにどちらかが主体というのではなく、両者の出会いと相互作用の場として出来事をとらえます。

具体的にいうと、たとえば「見える」という動詞があります。「見える」というのは実は、「見る」とは違って自分でコントロールできることではありません。

たとえば「鳥が見える」という時、それが可能なのは鳥が視界に飛んできたからです。鳥がいない状態で「鳥が見える」ことはできません。かといってそれは鳥に「見せられている」受動態でもなく、人が見なければ「見える」ことはできないのです。

要するに、「見える」というのは人と鳥のどちらか一方では成立しない出来事なのであり、どちらかが完全にはコントロール出来ない事態です。それ故、中動態には意図的にする、というよりも、そうなってしまった、という出来事的なニュアンスが入ります。誰かに「見ろ!」ということはできますが、「見えろ!」ということはできないのです。(「見えた」時にはじめて見えるのであって「見えない」時には見えない)

中動態にはこのように(1)双方向的・共創的である、(2)意図的というより出来事的である、という2つの特徴があります。

これはとてもコミュニティ的なあり方ではないでしょうか。

コミュニティというのは趣味や目的、サービスなどある共通の「旗」の元に人々が集まることによってできますが、場や各自のあり方は固定的ではありません。

コミュニティ的な組織の反対は軍隊などトップダウンの組織ですが、そこでは特定の人が他の人の動きや組織のあり方を規定します。命令によって画一性が保たれ、逆らえば排除されます。

しかしコミュニティではメンバーはあくまで自発的に行動します。その行動はコミュニティに資するものですが、メンバーが増えたり減ったりすればコミュニティの外縁も変わりますし、コミュニティ自体のあり方(being)や活動も変化します。

つまり、「コミュニティを運営する」といっても、たとえばコミュニティマネージャーがメンバーの行動を規定しているのでもなく、かといって完全にメンバーが好き勝手にするのでもなく、双方向の動的な関係のなかでコミュニティというのは「形作られていく」わけです。

よく、「コミュニティはつくるものではなく出来るもの」といいますが、このニュアンスもとても中動態的ですよね。

「和して同ぜず」の身体

イベントでは「コミュニティは旗やある種の(有機的)統一性が大事なので、熱量のためには選別が必要なケースもある。その線引きはどうしたらいいのか?」というような質問も出ました。

たしかに、あまりにばらばらな人を集めてしまうとそもそもコミュニティ的な一体感がなくなりますし、一定の基準は必要です。しかし前述のように、コミュニティは軍隊のように画一的な規定をしてしまうと楽しさがなくなりますし、余白も大事です。

コミュニティにはむしろ「ちょっとちがう」人がいる方が動きや触発が生まれ、活発化することもあります。これについては以前、「同質的異種性」という話も書いたのですが、

この、共通項と異質性のバランスをどうしていくか、というのはなかなか難しい問題です。

アート思考的な組織論ではこうした関係性を「身体」のメタファーとして考えるのですが、実は身体には異質性が内包されていて、「身体」というのもの自体が異質性との反応によって動的に変化する力学の場としてあります。ポイントは、一つに見えて異質さの共存があり、かつそれらは固定的ではなく常に変化している、ということです。

ひとの身体は統一体ですが常に細胞は入れ替わっていますし、いろいろな細菌が同居している、社会のようなものです。そう考えると、コミュニティにおいても新しいものが入ってきたり排泄され入れ替わったり、というのはとても自然なことだというのがわかります。常に動的な出入りの動きの中で生じている「動的平衡」なのです。

コミュニティをあまりに画一的にしたり、メンバーの予想外の行動が起こった時にただ排除してしまうと閉塞的になったり熱量が下がってしまうことがあります。異質さを受け入れ予想外を楽しむような態度が大事なのです。

これは「和して同ぜず」という考え方と似ています。「和」というのは「和音」がそうであるように、同じ音だけでは和音にならずちがう音だからこそ和音になります。コミュニティは軍隊のように「おなじ」に向かうのではなく、「ちがう」ものの「和」を目指すものだといえます。

コミュニティと個の「いびつさ」

「中動態」であることと「和して同ぜず」ということ。

コミュニティをどう運営したらいいか、と考えるとコミュニティが主語になっていますが、「中動態」でみたように、コミュニティとメンバーは双方向的であり、相互の関係性のなかにあります。

コミュニティでは旗のもとに人々が集まりますが、「おなじ」ような人だけではいけませんし、むしろ異質性があった方がよく、異質性から予想外が起こってくるようなコミュニティがよいといえますが、これを逆にメンバーからの視点でみてみましょう。

コミュニティに所属するある人は他のコミュニティにも所属しています。仕事や家庭、恋愛関係、地域など、人はいろいろなコミュニティと関係をもち、その関係性の優先順位を都度都度変化させています。

「分人主義」という言葉がありますが、一人の個人とはなにか一つの役割に特化した固定的な存在ではなく、その時その時で色々な役割を演じ分けながら変化しつつ生きているのです。

アート思考ではひとりひとりの形は徹底して「いびつ」であり「ちがい」があると考えます。

弊社uni'queが「複業」をルールにしているのもこうした考え方がベースにあるからなのですが、「いびつ」な一人ひとりの良さが十分に生きるためには、一企業の「箱」の形に合わせてその「いびつさ」をなくしてしまうのではなく、むしろ個の「いびつさ」に合わせて色々な箱を都度都度選んだほうがよい、という考えているのです。

これをコミュニティ的に考えるとこうなります。

ある人は複数のコミュニティに所属している。コミュニティAにいる時にはAの「旗」の色で価値を発揮し貢献する。しかし同時にコミュニティB,C,D…と他のコミュニティにも属しており、それぞれのコミュニティでは別の色の価値を発揮している。

コミュニティAの中をみてみるとコミュニティAのカラーになっているという意味では一体的だが、それぞれのメンバーはそれぞれ別のコミュニティとの関係のベクトルをもっていて、(Aのカラーも持っているけれども)ひとりひとりのスペクトラムはそれぞれ全く違っています。それが異質性となるわけです。

弊社では複業メンバーのマネジメントにおいて、

②Openness 〜社外のことも共有する

ということを意識しているのですが、それは組織のなかでまさにこうした「それぞれのコミュニティ」との関係性や異質性を生かすためだとも言えます。

コミュニティは個の「いびつさ」を受け止めるセーフティネット

こう考えると、コミュニティには共通項が必要だけれども、個人を画一化するものではなく、個人は複数のコミュニティに属することによって多様性をもちうる、ということがわかります。

ファンベースのさとなおさんが以前コミュラボオフ会に登壇された時、

「コミュニティに多様性は必要ない。必要なのは多様なコミュニティである」

とおっしゃっていたそうなのですが、まさにそういうことなのでは、と思います。

ここでのポイントは、コミュニティというのはその本来性として「複数性」を許容する、ということです。動的で出入りが自由であり、関係性の力学としてあるコミュニティと人との関係は、常に複数的な網の目の中にあります。

そしてこのような複数性は、まさに個が個として自分らしく生きるための鍵だとおもうのです。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。

もう一つ、地方公務員の方向けのこちらのイベントでもアート思考の講演をしたのですが

この時にもそれを感じました。

質疑のなかで、「アート思考は自分起点というが、Aという意見とBという違う意見があった時、それをどうやってすり合わせていったらいいのか?」という質問があったのですが、その時にこちらのスライドを示して、

組織のパラダイムは左から右にシフトしつつある、という話をしました。

過去の「箱」型の組織では意見のちがいは「軋轢」を生むが、引力でつながる組織ではそれらはどちらも共存し、生かされうるという話をしました。これも実は同じことで、一つの組織にしかいないとその組織の論理に合わせないといけないけれど、依存が複数化されていれば自立していられるし、また相互のちがいも適切な距離感のなかで尊重できる、ということだと思うのです。

また、別の方はアート思考の講義を受けて、「地方公務員として、人々の「いびつさ」ややりたいことを我慢しなくてよいサポートをしていきたい」とおっしゃっていました。

そもそも「地域」というのは古くからある、代表的なコミュニティの一つです。コミュニティは、個の「いびつさ」を消すのではなく、個の「いびつさ」が発揮され生きるための「セーフティネット」であり、理想のコミュニティとはまさに「編み物」のように複数の糸の寄り合った、柔らかくしなやかなものなのではと考えます。

地域や企業も、一つのコミュニティです。しかし20世紀型の工場のパラダイムのもとでは、画一化や切り落とし、分断も生み、いつのまにか閉塞的なものになってしまいました。

複業やギグワーカーなど働き方も多様になってきました。しかし、ギグワーカーが異質性を許す「ギグ」ではなく、個の「いびつさ」を消す構造になりかけていたりします。

「ギグ」とは音楽用語で単発のバンドセッションを指す。だが、ギグワーカーの実態は、そこにバンド仲間は存在せず孤独にアルゴリズムの指示のまま動き、個が消される世界でもある。

コミュニティの価値とは、もしそれがなかったら出せなかった個の「いびつさ」を解き放ち、生き生きとさせてくれる場であることだと思うのです。

改めて「中動態」的な「和して同ぜず」の複数化されたセーフティネットとして、それぞれの「いびつさ」がもっと生きるためのセーフティネットとしてコミュニティを捉え直すことがこれからますます必要なのではないでしょうか。

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