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関係性の名前を重視すると、自分の感情を押し殺すことになる。

社会には関係性の名前が沢山ある。

「関係性の名前を5つ挙げてください」

と言われたら、思い浮かぶのはこの辺りだろうか。

・家族
・恋人
・友達
・同僚
・仲間

などを連想するのが一般的だろう。

「名前がある」ということは、それぞれ「意味がある」ということだ。

では、以下の①〜⑥を全て違う言葉で書き分けることができるだろうか。

1つ1つを埋めることはできても、全てを書き分けるとなると意外と難しいのではないだろうか。

では、逆に全てに共通する言葉だったらどうだろう。

おそらくこっちの方が書きやすい。例えばこんな感じ。

もしくはこんな感じ。

とどのつまり、こういうことになる。

ここで疑問が湧く。

「結果としての定義が同じなら、なぜ別々の名前が必要なのだろうか?」
と。

人と人が助け合うのは当たり前のことなのに、なぜ「家族だから、助け合うもの」「友達だから、助け合うもの」、「近隣だから、助け合うもの」と、いちいちカテゴライズして考えなければいけないのだろうか。

これらの素朴な、疑問はその延長に大きな議論があったりする。

それを象徴するのは、改憲の議論だ。

自民党による改憲草案の24条1項には「家族の助け合い義務」が新設されている。

家族は助け合わなければいけない(たとえそれが、どんな家族であっていも)

そんな家族でなくても当たり前のことを明文化したいという欲求が、この国にはある。

関係性の名前を定義したいという欲求。

その欲求自体を否定するつもりはない。

ただ私はその欲求に従った先にある世界を「自分の感情よりも、社会の体裁を優先させる社会」だと捉えている。

例えば「恋人同士が助け合う」という状況は本来、「好きな人だから助けたい」という感情を両者が持った結果として生まれる。

しかしそれよりも先に「恋人同士は助け合うものだ」という社会定義が存在すると、自分の感情に関係なく社会定義の方が優先されることになる。

本来であれば、まず感情があって行動がある。その結果が積み重なって出来上がるのが「関係性」のはずだ。

しかし関係性の名前があれば、それらの行動をすっ飛ばすことができる。

友達だから
恋人だから
家族だから

その言葉で全てを片付けることができる。

そんな関係性の名前を活用するメリットはもちろんある。

しかし関係性の名前を安易に振りかざすことは、いずれ自分の感情を押し殺す危険性を孕んでいる。

そのデメリットが共存していることを意識できている人はどのくらいいるだろうか。

その利便性を享受するか。放棄するか。

ちなみに放棄した場合は「リレーションシップアナーキー」という生き方があるが、それはそれで難しい(経験者は語る)。

・家族だから
・恋人だから
・友達だから
・同僚だから
・仲間だから

その言葉を発する時、自分は自分の感情をこの先押し殺す覚悟がどの程度できているだろうか。

その言葉を発する前に、少しだけ立ち戻って考えてみる価値はあると思う。

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小島 雄一郎
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