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日経COMEMOに月5回投稿するわけ。

日経COMEMOに投稿をはじめたのは2018年秋であったと思います。日経新聞の制度としてはKOL(キー・オピニオンリーダー)というのですが、自分でそれを名乗ったことはありません。

昨年6月まで毎月2回の投稿でした。COMEMOは2回か5回という選択肢があります。少ない方を選んでいました。しかし、昨年7月から5回に増やしました。

今回は、その理由や定期的に何か書くことの意味について記したいと思います。ランダムというか、だらだらとですが・・・。

なぜ月2回だったのか?


他新聞社の電子メディアに毎週連載をしていたので、そうたくさん書くのはハードルが高いと思ったのです。本業でもないのに、週ベースものが月に合計9本はきついな、と。月ベースは、いわば「別腹」になります。

その連載は2011年からスタートしていました。毎週ネタを考えながら2000字程度のコラムを書くのに馴れるまで少々時間がかかりました(ブログは2007年頃から書いてましたが)。テーマが決まっているわけではないので、日常生活で気になったこと、感じたこと、それらをちょっとメモしておき、原稿にしました。

上記の他新聞社のメディアと並行し、他の雑誌媒体にも連載をしてきましたが、常にテーマが決まっていました。海外市場開拓、中小企業、ラグジュアリーの動向、デザインとか、何らかの設定した範囲の現象にフォーカスしています。

そして冒頭に書いたように、2018年、COMEMOへの投稿が加わります。COMEMOもはじめは欧州のネタを中心に書きました。長く欧州に住んでいる、他の人が書いていなそう。そういう動機です。

COMEMOにはルールがあり、必ず日経新聞の記事を1本、文章のどこかに引用しなければいけません。自分の文章の内容とまったく関係のない記事でもいいから、とにかく日経新聞の記事が入っていないといけません。この条件から、日経新聞の欧州関連記事を常にフォローすることにしたのです。

ただ、書き続けるうちに、欧州とは関係のない記事も書きたいと思うこともあり、そういうネタも拾っていきます。また、取材が丁寧でとても良いと思った記事は、記者の方を声援するつもりで記事を引用しながらコメントする文章を書くようになります。

一方、他新聞社の連載は500本以上の記事を書いたところで、昨年5月、そのメディアの閉鎖が決まったとの連絡を受けます。そこで、自分にとって定期的に記事を書く意味をあらためて考えなおしたのです。特にテーマを決めない記事を書く意味です。しかも、個人的日記ではなく、です。

月5本にスイッチしようと思った理由

長く続いた連載が終わるとわかったその時、ぼくがとっさに思ったのは2つです。

これで毎週ネタ探しをしなくてもいいのか。

長くやっているうちに、毎週何かを書ける実績はできました。一定のレベルを維持できたかどうかは読者の判断ですが、とにかく、散歩しながら、人と雑談をしながら、ネタを毎週見つける習慣はできたのです。それでも何も書かない解放感を味わいたい気持ちはありました。

同時に次のようなことも思ったのです。

あることを、1時間でも2時間でもまとめて考え書き記すメリットを維持すべきでは?

日常の生活やメディアを通じて知る社会現象などについて「それは一度まとめて考えたことがある」というのは、自身の思考体系をつくるのに有効です。特に、ぼくは自分が直接経験していることと重なることをなるべく記事にします。メディアでの報道記事であっても、自分がビジネス上や生活上経験していることと繋がっているネタを優先します。

そうすると、長く書いていると、かなり多くのことについて自分の言葉で語れるようになるのです。

ぼくが初めて本を書いたのは2008年で、講演やセミナーで話すようになったのは翌年からです。今、思い出すと、あの頃、聴衆の方たちからの質問にコメントするのに苦心していました。

もちろん、今でも苦労することはあります。それでも、(誰か他人が書いた本の内容ではなく)具体的な自分の経験から得た考えを頭の中から引っ張り出しやすくなっていると実感します。

このことを思い返すと、ネタを探してそれについて考え文章にする環境を強制的につくっておくのは悪くない・・・と思うわけです。これがCOMEMOに月5回投稿するに至った動機です。

トップの写真の選び方は?

トップの写真の方針についても書いておきましょう。自分のビジネス経験や日常生活経験と繋がる記事を優先するのと同じく、写真もオリジナルのものを使います。

著作権フリーの写真を探してくるのではなく、自分の撮影した写真か、21歳の息子が撮影した写真を使わせてもらっています。どこかのプレゼン資料に使われるような「ありがちな」写真だと、ぼく自身の落ち着きが悪いのです。

さて、自身の写真の場合、記事の内容とダイレクトに繋がります。全てスマホで撮影しています。まったく上手くなくても、その現場にいた証として掲載します。

息子の撮影した写真の場合、一緒にいた場合、彼が何処に出かけて撮影した場合の両方があり、圧倒的に後者が多いです。それでも、何処でどういうコンテクストで撮影しているかはわかっているので、少なくともぼくの中では、文章と写真が繋がっています。

因みに、この写真の選択の効用は意外なところにありました。

他人のコラムや記事の批判、もっといえば「義憤」のために自分の文章をしたためるとの動機が減ります。そのような動機で書かれた文章は読者の注意を引きやすいのですが、あくまでもぼくの個人的趣味として、どうも書いた本人としては後味が悪いのですね。怒りまくっている印象だけが読んだ人の心に残るのは嫌なんです。

だから義憤がフックになっているとき、暗喩的に、なるべくまったく別のエピソードや話題に置き換えることが多いです。もし、結果的に文章が分かりにくくなっているとすれば、それはぼくの筆力の問題です。でも、その問題の解決策のためにスタイルを崩すのは避けたいな、と。

最後に。今日の欧州版の記事で目をひいたのは、以下です。上記と一見関係ないですが、もしかしたら、何かの暗喩かも 笑。


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