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おじさんと、おばさんを悩ませる「セルフスティグマ」とは?

「僕なんか、もうおじさんだから」

そんな前置きをして、話し出すことが増えた。

若者研究を仕事にしている関係で、20代と話すことが多い。

研究を始めたのは10年前。僕は27歳だった。今は37歳。研究対象は変わらず20代だが、僕は歳をとっていく。

若者からしたら、37歳はさすがに「おじさん」だろう。

いつしか若者と話す時は、いささか自分を卑下して「おじさんの意見なんだけど」と、前置きをするのが癖になっていた。

そして最近、今の自分にぴったりの言葉を知った。

「セルフスティグマ」

性的マイノリティーに関するセミナーで知った言葉だったが、その意味は自分の「おじさん感情」と同じだった。

そんな構造を、例によってパワポで紐解いていたら、昨日のLGBT法案に関する議論ともつながった。

今日はそんな話。

■自分に押された烙印を意識するセルフスティグマ

「スティグマ」とはギリシア語に由来し、牛や奴隷に焼きつけられた刻印のこと。日本語では汚名、恥辱などと訳され、社会的烙印のことを意味する。

主に精神科をはじめとする医学で使われる言葉らしい。

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そんなスティグマに「セルフ(自身の)」がつく「セルフスティグマ」とは「社会的な烙印を自認している状態」ということだ。

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実際に差別や偏見があるか、どの程度あるのか、はさておき「自分が社会とズレている」と強く意識している。自分で自分に押された烙印と(必要以上に)向き合ってしまうのが、セルフスティグマの特徴だ。

■おじさん(おばさん)だから、というセルフスティグマ

話を冒頭に戻す。

僕が「おじさんの意見なんだけど」と前置きをするのは、(広義では)このセルフスティグマだろう。

実際に僕が対峙する若者が、おじさんを差別していたり、偏見を持っているかはわからない。しかし僕は社会で「おじさん」「おばさん」に押されている烙印を意識している。だからセルフスティグマとして、予防線を張る。

一言にすれば「わかってますよ」ということだ。

「わかっている」のは、世間と自分とのズレだ。

そんなズレをパワポで構造化してみる。

■世間の方向性と自分の方向性のズレ ≒ 市場(マーケット)

構造には、2つの方向性が登場する。僕の方向性と、世間の方向性だ。

まず、僕は(というか人間は)老いることに抗えない。老いを受け入れるしかない。

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しかし世論や社会は、若いことは価値があることで、老いることは醜いことという意識が強い。

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僕が強く意識しているのは、このズレだ。

だからそのズレを「わかってますよ」と前置きする。「(社会とズレている)おじさんの意見なんだけど」と伝えてから話をはじめる。

世間の方向性と、自分の方向性に対するズレの自認と葛藤が枕詞となって表現されたのが、冒頭の表現だ。

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ただ、僕は「おじさんであること」、ひいては「老いること」に抗おうとはあまり思っていない。

でも世の中にはアンチエイジングなんて言葉が存在するし、「若いね」「美魔女」は褒め言葉として使われる。

世間的には、抗うのが正解かもしれない。
そして抗う姿勢は大きなマーケットになるだろう。

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でも自分の方向性を変えるより、世間の方向性を変える方が僕にとっては楽だから、こんなnoteを書いている。

甚だ僭越な表現だが、世間が僕に合わせてくれると非常にありがたい。

■存在理由と、セルフスティグマ

と、ここまで整理して気づいたことがある。

たぶんこの構造は「おじさん」や「おばさん」だけの話じゃない。

例えば、僕がこの話を聞いたのは「ポリアモリー」に関するセミナーだった。

ポリアモリーとは、合意を得た上で複数の人と同時に、恋人的な関係を持つ恋愛スタイル。僕がこれまでポリアモリーについて書いたnoteはこちら

そのセミナーでは、評論家の荻上チキさんと精神科医の増田史さんが、自殺願望とセルフスティグマの関係性について話していた。

ポリアモリーをはじめとする自分では変えられないことが、世間の方向性とズレている。

そんなセルフスティグマと自殺願望には、どうやら相関性がありそうだ、という悲しい話だった。

セルフスティグマは人の死と直結する(かもしれない)。

おじさん・おばさんの話だって、例外ではない。

自分では変えられないことが、世間で認められていない。

老いは変えられないけど、老いることは世間で認めらていない。

それを強く自認してしまうことは、苦しいことだ。自分という存在を否定された感情につながるだろう。

だから私たちはそうなる前に「僕(私)なんか、もうおじさん(おばさん)だから」と、自分を守っているのかもしれない。

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自らを「おじさん」「おばさん」とする人たちは、自分の存在理由と向き合っているのかもしれない。




ただ、今社会ではそんな存在否定が公然と行われようとしている。

LGBTなど、性的少数者への理解増進に向けた法案が見送られた。

そんな議論の中で、国民を代表する与党議員が、LGBTに対して「種の保存に背く」との発言した。

事実だとしたら、存在否定につながるあってはならない発言だ。

こんなニュースを耳にすると、やっぱり「おじさん」はダメなのかな、と改めて考え直してしまう。


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