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社会から「普通」をなくすことが、究極のバリアフリーをつくっていく。

今月の日経COMEMOのテーマは  #究極のバリアフリーとは  。 

バリアとは障害のこと。
バリアフリーとは、障害がなくなること。

上の記事でも似た話があるが、僕には障害について印象に残っている話がある。

障害者を「障がい者」と表記する配慮なんて的はずれだ。なぜなら障害を抱えているのは「人」ではなく「社会」だから、という話。


これをパワポで紐解いてみる。


例えば、現代の社会では、車椅子の人が生活するのは大変だとする。その場合「車椅子の人=生活するのに障害がある人=障害者」となる。

でも未来の社会で、車椅子の人が難なく生活できるようになったとする。すると「車椅子の人=生活するのに障害がない人=障害者じゃない人」となる。

繰り返しになるが、バリアフリーとは、障害がなくなることだ。

車椅子の人が「障害がない人」になるとしたら、その選択肢は歩けるようになること、だけだろうか。

車椅子の人が、難なく日常生活を送れるように社会が変わることもまた、障害がなくなることだ。それがバリアフリーだろう。

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つまり障害は「人」にあるわけじゃない。「社会」に障害がある。生きづらい人がいるのは、社会に障害があるからだ。

僕が覚えているのは、そんな話だった。

■物理的なバリアと、心理的なバリア

ここまで497文字書いた。

その中で「書きそうになるけど、書かない」と決めていた言葉がある。

その言葉は「普通」だ。

先ほど、僕はこう書いた。

例えば、現代の社会では、車椅子の人が生活するのは大変だ

その表現は、こうも書けた。

例えば、現代の社会では、車椅子の人が普通に生活するのは大変だ

受け手の印象は、大きく変わらないかもしれない。

しかし自分の中に「普通は〜」という感覚があるか。これは物理的なバリアフリーが進んだ先。心理的なバリアフリーにとって重要な視点だ。

歩けるのが普通。
話せるのが普通。
見えるのが普通。
○○できるのが普通。

そんな「普通は〜」という感覚を強く持っている人にとって、

歩けない人
話せない人
見えない人
○○できない人

「普通の人じゃない」と、変換されるだろう。

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たとえ社会が車椅子の人にとって物理的に生活しやすくなったとしても、それが「普通じゃない人にも配慮しましょう」という考え方の基だとしたら、それはバリアフリーとは呼べない。

■普通は〜という発想が、最後の障害

障害とは「人」ではなく「社会」にある。

そんな社会が抱える最後の障害こそ「普通は〜」という考え方ではないだろうか。

#究極のバリアフリー なんてものがあるとしたら、それは社会から「普通は〜」をなくすことではないだろうか?

少なくとも「普通」とは「多くの人ができること」じゃない。

人は生まれながら全員違う。それはつまり1人1人に異なる「普通」があるということだ。

だから自分が生まれ持った「普通」によって、物理的にも心理的にもハンデを背負わないこと。その状態こそが、究極のバリアフリーではないだろうか。

そんな考え方が浸透すれば「普通の人」「普通じゃない人」も、きっといなくなるだろう。

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小島 雄一郎
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