復刻版をビジネスのコアにおく企業の存在感が増している - 「デザインプロダクト」を巡る旅で思うこと。
先週、「デザインプロダクト」を巡るためにイタリア各地を旅をしました。もう25年以上、毎年、このような旅をしていますが、年と共にいろいろと状況が変わってきました。
ぼくは、「プロダクトデザイン」だけではなく、「社会」「文化」など対象が大きく広がったデザインの活動をしてきて、この数年間は、「ビジネス+文化のデザイナー」と名乗ることにしています。しかし、だからこそ、デザインプロダクトを巡る旅をしながら感じるのは、身体性に関わるデザインを視野におかないデザインは「何かを見失う」ということです。
ぼく自身の遍歴も踏まえながら、今回思ったことを、ちょっと整理して書いていきましょう。
プロダクトデザインに入り込むようになった背景
東京で自動車メーカーのサラリーマンをやっていたとき、ぼくの仕事は欧州の自動車メーカーの工場ラインで装着するエンジンやトランアクスルのような大物コンポーネントを供給アレンジすることでした。お客さんはドイツ、スペイン、英国などの大手カーメーカーです。よってカーデザイナーと付き合うことはありませんでした。
しかし、ある時、英国のスポーツカーメーカーとのビジネスがはじまり、その相手があまり大きな組織ではないことや、コンポーネントが搭載されるクルマの開発にもつきあう必要から、カーデザイナーが視界のなかにいる環境になりました。
一方、その頃、カーデザインはデザインの主役的な存在感を示していたこともあり、その世界の近くにいることが、自動車産業を俯瞰するのに絶好であるとじょじょに考えるようになります。そのなかでも抜きん出たデザイナーがトリノでイタルデザインを経営するジュージャロでした。
そして、いくつかの縁が重なり、ぼくはサラリーマンをやめ、トリノでイタルデザインのエージェントの役割もしていた若い会社に潜り込むに至ったのです。
そのなかで右も左もよく分からない段階のぼくが任されたのが、カロッツェリア(車体メーカー)において生産されるジュージャロがデザインしたスーパーカーの限定車を一台一台みながら、品質をチェックすることでした。もちろん、イタリア人の品質の専門家もみるし、テストドライバーもチェックします。一ユーザーとしてみるのが、ぼくのすべきことでした。
その時には気づかなったのですが、これがぼくがプロダクトデザインを仕事の領域とした最初でした。
「インダストリアルデザイナー」や「建築家」との仕事
1990年代前半、イタリアでデザイナーという言葉はさほど一般的ではなかったです。スタイルに関わる「スティリスタ」、あるいは建築家の仕事の一つ、という捉え方が強かったからです。
そして、日本の大企業であれば当然にあったインハウスデザイナー部門は、イタリアでは自動車メーカー程度にしかなく、デザイナーとは独立事務所の人間であり、家具や雑貨などのデザインはプロジェクトベースの支払いではなく、販売にリンクしたロイヤリティ契約で請け負うのが多数派でした(今もそうですね)。
この形態が主流となったのは、事務機器メーカーのオリベッティがデザイナーは「外部にいる」ことに拘った影響が強いとされています。デザイナーが社内に「隔離」された状況では外の空気が吸いにくくなる。それではデザイナーが十分にクリエイティビティを発揮できない、との危惧を排除するのが目的だったわけです。この考え方に他の規模のある企業が倣ったのです。
いずれせよ、トリノの会社をやめた後、ミラノに移り、自分の名前で仕事をすることになり、独立事務所をもつ建築家やインダストリアルデザイナーと称する人たちと実際にビジネスをするようになります。
クライアントのブリーフィングに応じた製品をデザインしてもらうのをコーディネートするのですが、こういうプロセスのなかで、デザイナーのクリエイティブのもとが何であるかが分かってくると、その「もと」ネタをぼくもフォローするようになります。
これは、かなり視界の広がる経験でした。
イタリアデザインの復刻版に関わるようになる
90年代の後半、それまで家具や雑貨のヴィンテージを扱ってきたという日本の人から問い合わせをうけます。
それまで大企業とやってきたデザインプロジェクトでは聞かなかった話です。まだネットも十分でない頃なので、そう簡単にデスクリサーチができません。しかも、ジョエコロンボ本人は25年以上前に若くして亡くなったいる。
仕方なく、ミラノの本屋をまわり、ジョエ・コロンボと名のつくタイトルの本を探します。そうしたら、ジョエ・コロンボの展覧会のカタログがみつかります。そして、いろいろな人が生前のジョエ・コロンボを語る文章のなかで、彼と関係が最も近かったと思わる人をみつけます。今度は、分厚い企業データの本を引っ張り出し、その人の会社の電話番号を調べ、「誰がデザインの著作権をもっているのか?」と聞くのです。
このような経過をへて、著作権者にコンタクトし、かつて生産していた企業にまだ製造・販売権が残っており、メーカーへの交渉次第で作ってもらえるかを確かめたのです。そのうえでメーカーに直接乗り込みます。
そうすると先方も金型などの状況を確認したうえで、生産条件と価格を提示してくる、というわけです。こうして復活したのが、スパイダーでした。当初、メーカーは限定で復活させたのですが、その後の市場の動きから、常時ストックをもつ製品に格上げしました。
ジョエ・コロンボについてはそうとうに様々なメーカーと交渉してきました。この他にも復刻してくれたものはあるし、ジョエ・コロンボ以外のデザイナーの製品も復刻を手掛けてきました。フランス人のピエール・ポランのデスクなど、その一つです。
あるいは、こちらが復刻を働きかけず、イタリア企業が独自に復刻に動いていたジョエ・コロンボのBOBYワゴンなどは、もう20年以上の取り扱いになりますが、これを企画しているのが、東京にあるメトロクスの下坪裕司さんです。そうです、25年以上前、ぼくに前述の依頼をファックス(!)でしたきたのが下坪さんです。毎年、デザインプロダクトを巡る旅をしていると冒頭に書いたのは、下坪さんと一緒に旅している、ということです。
彼とはメーカーだけでなく、ヴィンテージショップの倉庫、デザイン書籍の店やデザイン作品を所蔵する美術館を訪ね、主に20世紀後半のデザイン作品に直接出逢いながら、「これ、復刻できたらいいよね」といった会話を交わします(彼は700点以上のデザインコレクションとおよそ3000冊に及ぶデザイン関係の書籍をもっているようです)。
今世紀、復刻版が一般的になってきたのは?
さて、今回の旅で思ったひとつは、20世紀後半のデザイン作品の復刻版が一般的な手法になった以上に、それをビジネスのコアに据えた企業の存在感が増してきている、という点です。それも、ノスタルジックに思う客層を狙っているだけでなく、今の若い人たちをターゲットにしています。
例えば、今回、ヴェネト州にあるアノニマ・カステッリという会社を昨年に引き続き訪れました。かつてカステッリという企業がエミリア・ロマーニャ州にあったのですが、そこを買収し、カステッリのもっている資産の復刻がビジネスそのものなのです。代表的製品が1967年、ジャンカルロ・ピレッティがデザインしたチェア、Pliaです。
彼らは新しいデザインを手掛けません。もちろん、必要なタイミングがくれば再考するかもしれません。彼らは、カステッリがもつ膨大なデザイン資産(図面、試作品、金型など)を使い、新しいデザインヒストリーを作ろうとしています(このあたり、ぼくがForbes JAPANに記事を書いた英国のリバティによるアートヒストリーの解釈(↓)も参照されると良いかと思います)。
そして、このような動きは、今回旅したピエモンテ州にもあります。1960年代から1970年代にかけ、数々のアイコン的な作品を世の中に出してきた複数の企業を買収し、それらをグループ化しています。
この拠点がワインの文化的風景としてユネスコ世界遺産に登録されているランゲ地方にあります。トップの写真は、葡萄畑が広がる同地域です。上述のデザイン資産の買収ストーリーとして面白いのは、この買収とグループ化は、ワイナリーのオーナーが行い、若い息子に経営を任せているとしている点です。
ワイナリーに、そのような買収を重ねるほどに資金力があるのか?という疑問が出るでしょう。実は、まったく分野の異なる大企業の創業家が、このワイナリーのオーナーです。そして、このオーナーがアート、デザイン、文化にとても造詣が深く、デザインの復刻に投資をしているのです。デザインの分野では「ワイナリーのオーナー」の顔を使います。
やはり、デザインヒストリーの再編成が進行中である、とみるべきです。
この復刻を推進しているグループ会社の社長と夕食をとっているとき、それぞれのデザイン遍歴を紹介するシーンがありました。ぼくはイタリアで仕事をするようになった動機と経緯を話します。下坪さんがジョエ・コロンボのスパイダーのエピソードを話すと、「えっ!あれは、あなたのおかげか!」と驚かれました。今ある復刻のトレンドをつくる仕掛け人の1人であると見られたのです。しかし、これまで説明したように、これは決して「誤解」でも「過大解釈」でもないです。
ただ、そこにデザインヒストリーを書き換えようなどという壮大なビジョンはないです。下坪さんはひとすら自分が好きなデザイナーのデザイン作品を追ってきたら、たまたま結果として、現在、トリエンナーレ美術館内の「イタリアデザイン美術館」エリアに並んでいる数々の作品をみながら、「あ、これ扱ったね」「あれは売れなかったね」「これは、復刻したかったね」との会話ができるようになったのです。
イタリアデザイン名作集からピックアップしたのではなく、一つ一つのモノを追っていたら、後になって、それらが「イタリアデザイン美術館」エリアに並んだのです。そして、欧州のデザイン関係者から「目利き」としてリスペクトされています。
このことが物語ることは小さくないです。日本の文化発信とは、なにも伝統工芸やサブカルチャーだけを範囲とするのではなく、ここで書いているように「目利き」あるいは「審美眼」が欧州人の見方とぶつかりながら関わる、ということでもあります。ここで身体性のあるデザインが鍵になります。
因みに、旧車を愛する20代の自動車担当記者の以下の記事を読んでも、デザインを長い時間軸で改めて眺める意味が問い直されていますね。