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「退屈」と「暇」の価値を「Well-Being」と「アート思考」から見直す。


お疲れさまです。uni'que若宮です。

自粛生活も早2ヶ月近く、せっかくのGWもどこも出かけられず、、、退屈だわ、、、暇だわ、、、とストレスが溜まっている方も多いと思います。


「飽き」と「退屈」と「暇」

「飽き」と「退屈」と「暇」という似たような言葉があります。どれもわくわく楽しい状態の対義語ではありますが、それぞれ少しずつ違いがあります。

まず「することdoing」の量のちがい。「doing度」から考えると「飽き」>「退屈」>「暇」という順番になるでしょう。

「飽き」は「やりすぎ」の状態。ずっと同じものを食べ続けたりすると「飽き」ます。刺激過多です。密です密です

「退屈」には2つの状態があります。ひとつは飽きるに似ていて「ずっとしている」となる状態。もう一つは「することがない」状態。どちらも「変化がなく、刺激がすくない」状態で、これはちょうど、「等速直線運動」が物理的には「停止」とイコールなのと似ています。

「暇」は「なにもすることがない」状態です。疎です疎です


「Well-Doing」から「Well-Being」へ

石川善樹さんの「フルライフ」という働き方・生き方の本の中に、こんな図が出てきます。

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(石川善樹『フルライフ 今日の仕事と10年先の目標と100年の人生をつなぐ時間戦略』より転載)


これは仕事や生き方が人生のステージによって成果重視の「Doing(する)」から徐々に「Being(ある)」へとシフトしていくことを示していますが、僕はこれを「余白」の割合の変化でもあるな、と思いました。若い頃はなにかをやっていることで「やりがい」「生きがい」を感じているのですが、徐々に「やる」のではない時間が増えてくる。

考えてみると、人間、歳とともに体力やdoingの能力は低下してきますし、以前のように「定年」がはっきりとあるわけではないにせよ、人生100年時代には後半の余白をどう生きていくか、というのが鍵になってきます。そして最終的には人間の人生というのは「死」という広大な余白に向かっています。Well-Beingへとシフトすることは「死という余白」に向かう壮大な準備、と考えることもできます。


「退屈」と「異化」

村上の春樹パイセンの『海辺のカフカ』にこんな一節があります。

「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。」

ここでは「飽き」と「退屈」が対比的に語られています。「飽き」はすでに述べたように「コンテンツ(内容)」や刺激が多く「密」であり、それ故に急速に慣れによる陳腐化が起こります。一方「退屈」は、刺激の度合いが低いために「飽き」づらい。

例えていうなら、「砂糖たっぷりの甘いお菓子とお出汁」とか「EDMとボサノヴァ」みたいな感じでしょうか。子供の頃は良さが感じられなかったり退屈で眠くなったりしてしまうが、段々と「繊細な面白み」がわかるようになってくる。ジョアン・ジルベルトに興奮してくる。「クラシック(古典)」も子供のうちは良さがよくわかりませんよね。

春樹パイセンがいうように、前者は「分かりやすい」のですが、その分すぐに飽きてしまいます。他方、後者はじわじわ味わっていけるものなので、長く味わえますが、分かるところにいけるまで一定の時間が必要です。

「消費的社会」では「分かりやすい」方が効果的で好まれますが、そのために短期的に価値が消費されてしまうので注意が必要です)


「退屈」についてすこしアート思考的な観点からいうと美学上の概念で「異化」というものがあります。これはロシアフォルマリズムの用語なのですが

慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。

詩の表現がそうであるように、アートはしばしば、「自動化」し「透明化」した日常の中に新たな切り口を持ち込むことで「面白み」を見出します。たとえば毎日すごしている自宅や通勤の通り道は記号的にショートサーキットされ、注意が払われることなくスルーされています。それはいわば「退屈な日常」です。しかし、実は退屈な日常にも「面白み」が隠れている。(千利休の「見立て」も「異化」の一種といえるでしょう)


こちらの記事には

パックン 「英語の表現に、『退屈している人は退屈な人』という表現があります。自ら面白いことや楽しいことを見つけられない人が『退屈な人』という考え方です。

と出てきますが、「退屈」を退屈するか、面白がれるかは人により、「面白がる力」は磨くことができます。


「暇」と「余白」

続いて「暇」について考えてみます。「暇」はさらに刺激がない、何もない状態、つまり「余白」の状態です。

「余白」は実はある種不安な状態です。西欧の価値観に「horror vacui(真空恐怖)」という言葉があります。絵画などでもそうなのですが、スキマがあるとなんとなく不安になり、それを埋めたくなってしまう心理です。西欧が牽引してきた資本主義に慣れ、現代の僕らにもそのような癖がついています。SNSのタイムラインを「〇〇チャレンジ」で埋め、たぬきに借金をしてまであくせく島になにかをつくりつづけるのです。

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(Frans Francken (II), A Collector's Cabinet (1625) :wikipedia Commons)

「暇」を「つぶす」という言葉が示すとおり、現代では暇はできるだけ無くそうとされます。暇を「暇として楽しむ」という能力がなくなってきていて、だからこそ自宅待機はつらい。


「暇」は「仕事というdoing」を図とした「地」であり、「余白」です。

絵画でもそうですが、「余白」には、物理的には何も描かれていませんが、だからといって意味がないものではありません。

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("Pine Trees" by Hasegawa Tōhaku, wikipedia commons)

東洋のアートでは「余白」が効果的に使われてきました。長谷川等伯の絵の前に立つ時、その「余白」に包まれなんともいえない広がりの中に佇むはずです。描かれていない「余白」にも確かになにかが「あるBeing」。


ここで「暇」という漢字の成り立ちについてみて調べてみます。

「太陽」の象形と「削りとられた崖の象形と未加工の玉の象形と両手の象形」(「岩石から取り出したばかりの未加工の玉」の意味)から、かくれた価値を持つひまな時間を意味し、そこから、「ひま」を意味する「暇」という漢字が成り立ちました。

語の原義からしても、「暇」は無価値ではありません。暇の中には「価値」が隠れているのです。


「自給自足」と「成熟」

ありふれた「退屈」なものを「異化」したり、「暇」という「余白」を楽しめるようになると、ひとは徐々に、Well-Beingへと向かえるのではないでしょうか。それは刺激やコンテンツを求め続けるのではなく、ある種「自給自足」の状態です。だからこそ「Doing」が減っても人生を楽しめるわけです。

一見価値が低く、無駄として避けられがちな「退屈」や「暇」は、実は「繊細な価値」であり、それを楽しめることは「成熟のしるし」でもあります。

「不足」への解決には2つの方向があります。「足す」と「足る」です。Well-DoingからWell-Beingへの変化は「成長」という「足す」フェーズから「成熟」という「足る」フェーズへのシフト、と言い換えられるかもしれません。


もちろんこれは成果をもとめて「するdoing」ことを否定するものではありません。

がむしゃらにdoingしなければならない時もあります。僕自身そうでしたが、がむしゃらにやってくそほど失敗して、やっとちょいBeingが増える、みたいなものですし、コロナ禍で大変な時に「退屈」やら「暇」なんて言ってられません。そんなこと言うのは余裕がある人だけだ!!生きてくために必死な人がいる中で不謹慎だ!!という声もあるかもしれません。

ただ、Doingや「足す」ばかりでは苦しくなってしまう、ということも心に置いておいたほうがいいと思うのです。僕はコロナ禍を抜けても経済は元のようには戻らないと考えています。正確にいうと、コロナ禍で少しシフトが早くなっただけで、もともと経済の縮小は避けられなかったと考えています。だからこそ「もっと!もっと!」と飽くことを知らず刺激を求め続けるより、「足もと」のものに価値をみつけ、「足る」という「面白み」を知ることが大事になるのではないでしょうか。

安宅さんの「開疎化」へのシフトは、空間的なだけではなく、時間的・心理的な意味でもいえるかもしれません。


そして、日本がもう少し「足る」を成熟社会になり、「心の余裕」が生まれれば、マスクを買い占めたりしなくても、みんなのDoingとBeingをうまく組み合わせて譲り合い、助け合うことができるようになると思います。


『美味しんぼ』の23巻に、「白身の旨さ」という話があります。ブラックさんがトロを好きなことは悪いことではありません。しかし白身の美味しさを知ると、もっと豊かにお寿司を味わえる、よい真打ちになれるのです(最後なんのこっちゃ


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