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白と黒に分けるのも、グレーにしてしまうのも違う

し政府が発表した2022年版「男女共同参画白書」では、「20代男性の約4割がデート経験なし」という結果が注目され、案の定テレビでは中高年の街頭インタビューで「最近の若いのはだらしがないね」などという映像だけを繰り返し放送して印象操作をしていた。よくいわれるメディアの切り取り報道である。

最近の若者が恋愛離れしたわけではないし、草食化なんてしていないというのは繰り返し私が言っていることで、その論説を書いたヤフーの私の記事はトップトピックスに載るくらいのものすごいアクセス数を記録、ネット中心に大いにバズった。

面白いのは、この記事が出てバズって以降、テレビの放送の論調も180度転換したことである。「デート経験なし4割といってもそれは今に始まったことではない」という趣旨の内容が増え、そういうコメンテーターも増えたwww。

テレビっておもしろい。

しかし、それに対して何が気にいらないのか、「それは違うでしょう」とかいちいちイキって文句つけてくる教授がいるらしいが、その御仁の論説は結局2005年以降若者の恋愛率や性体験率が減っているという一部の切り取りにすぎず、1980年代の事実はまったく触れられない。それはテレビの街頭インタビューの切り取りと何が違うのだ?という話である。しかも、この教授はあの白書のもとになった人生100年時代の恋愛なんたらという研究会(恋愛離れの若者に「壁ドンの練習」をさせろといって炎上した研究会)の中で、別のプレゼンをしている教授の一人である。自分たちの関係した研究会が、私のような野良研究者にケチつけられるのが気に食わないのかもしれない。まあ、気に食わないのは個人の感情なのでお好きにどうぞ。

しかし、こうした事例で肝に銘じておくべきは、フィルターバブルとエコーチェンバーの危険性である。

なんでもネットで検索できるよい時代になったが、そもそも人によって提示される情報は偏りがある。「フィルターバブル」とは、アルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーに対して提示される情報が穴痔ような偏ってものが表示されるようになり、結果自身の見たい考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立するという情報環境を指す。

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「エコーチェンバー」とは、SNS上でフォローしあうなど、自分と似た意見や思想を持った人々が集まる閉鎖環境において、自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いしてしまうこと。フィルターバブルと違ってその環境を自分で作り上げてしまうことである。

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「フィルターバブル」も「エコーチェンバー」もなかなか本人は気づけない。

世の中の有識者と呼ばれている人だけではなく、政治家でも企業のお偉いさんでもそういう環境に無意識に晒され毒されている場合がある。周りから持ち上げせれる立場の人ほど危険性は高い。メディアで発信する側の中には、その発信は決して自分の力だけではないのに、会社の立場やそのプラットホームがあるから発信できているに過ぎないのに、さも自分が「発信者」であるかのごとく錯覚して偏りまくってしまう悲しい輩もいる。もちろん、こんなことを書いている自分自身も例外ではない。気を付けたいものだ。

ネット社会になって情報がオープンになり、たくさんの情報に触れられる機会が増えたのだから、そういう視野の狭い偏見なんて生まれにくいんじゃないの?と思うかもしれないが、いくら情報量が増えたところで人間の情報処理能力が拡張するわけじゃないので、実はあまり変わらない。

そもそも人間は自分の見たいものしか見ないからだ。正確にいえば、見ないという能動的行動に基づくというより、無意識下で見たくないものは透明化されるので、「見たくないものが透明化された環境の中で受動的に世界が作られている」と解釈した方がいい。

人間はほぼ受動的な生き物です(人間に限らず動物も)。

「俺はなんでも能動的だ」といいたがるおっさんも俯瞰で見れば、無意識によって作られた世界の中で受動的に適合して動いているに過ぎない。そもそも環境に対して受動的に適応できない者は死んでいく。

受動的であることは生存力として必要な能力なのであるが、必要であるがゆえに依存力も強い。切り取りの情報で安心してしまうのもそうしたメカニズムがゆえだ。

本来無限大の広がりのあるネットの世界では、自分と違う意見の人や考え方と出会う機会の広がりがひとつのメリットだったはずなのだが、昨今のネットにおいては、むしろ「自分の敵を探すために検索して、あなたの敵はここにいますよとアルゴリズムがお節介をやいてくれて、敵を見つけたら自分の小さなネット仲間とともに敵認定し、切り取り能力をいかんなく発揮して一斉に叩く」という、撲滅行動のためのツールになっていると感じる。

敵か味方か、白か黒かしかないという勘違いをやめた方がいい。白でもない、黒でもない、ふたつの色を混ぜ合わせたグレーでいろってことでもない。そもそもふたつの色を混ぜる必要もない。

白は白のまま、黒は黒のまま認識すればいいだけだ。世界には白と黒しかないわけではない。赤も緑も青も黄色もある。色はその色のままとらえていくべきもので、混ぜたり、ある特定の色をなくしたりするのはそれはその人の解釈でしかない。その人の世界の話でしかない。その人の世界で黒を抹殺したとしても、他の人の中に黒はある。それを「黒を撲滅しろ」という思想になってしまうと、黒を見ている人間を皆殺しにしろという思考になるだけだ。

それ以前に、「黒を嫌うお前の中にも時と場合と相手によって黒が必要な場合もある」ってことに気付くべきだ。必要な時が一生ないかもしれないが、黒が必要で生活している人がいるかもしれないっていう想像力は大切じゃないか。身も蓋もない話をすれば、極端に黒嫌いな人間は多分自分が真っ黒であることを認識しているのだと思うよ。だから許せない。

この世は誰かの都合によって切り取りされた環境で作られることは多い。その環境の中では事実さえも改ざんさせられる場合も多い。戦前は足利尊氏は極悪人だったわけで。そういう意味では事実も絶対ではない。事実すら結局は人間の認識でしかない。認識ひとつで事実は変わってしまう。だからこそ、認識はなるべくそのまま切り取らず、混ぜ合わせず、そのまま認識しておきたいものである。そのままの認識が事実である。

よく「事実なんて存在しない。あるのは解釈だけだ」とどや顔でいう人がいる。そういうことを言う人こそ自分の解釈を事実にしたい人なんだろう。事実はある。ありのままの認識で排除もせず混ぜ合せもしない認識ならば…。

最後に、談志師匠の言葉を貼っておく。

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フィルターバブルとエコーチェンバーについてわかりやすく説明されている記事がこちらです。図表はこちらから拝借しました。



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