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“みんな横に並んでゴール” ー 膨張社会が縮む(中)

「みんな、横にならんでゴールしよう」という時代の空気が流れていた運動会の徒競走。かけっこが早い子も遅い子もいるのに、みんな横に並んで一緒にゴールしよう。差をつけたらいけない。みんな一等賞。早い子は早く走れるのにゆっくりと走らないといけない、遅い子は早く走らなくていい。努力しなくなったり、怠けたりする。そうすると、全体の力が落ちる。学校だけでなく、会社も、社会もそうなっていった。みんな平等、みんな一緒、みんな一等賞…膨張していた時代の空気がコロナ禍に入って一気に縮んだ。

1.アリとキリギリス

「分を弁(わきま)えよ」は死語に近くなった。「分を弁えよ」と言ったら、古臭い・差別的だという人がいる。しかし分を用いた漢字は多く、日本の社会様式・生活様式のなかに入り込み、昔からずっと承継されてきた社会的価値観だった。

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「分」とは役割・能力のこと。「自分」とは自らの役割のこと。「分を弁える」とは、自らの役割・能力を知り、それを認識して行動することで、生活・仕事・社会でなすべきことを果たすということ。今風にいえば、SDGs。かつては「分不相応」といって、自らを戒めて自らの分を意識して行動した。「分不相応」とは自らの役割・地位・能力を超えていることで、膨張社会の核心を突いている。

「コツコツとじっくり努力すること」は格好悪くなり、軽く見られるようになった。「効率よくスマートに手に入れること」が格好いいことだと思われるような時代の空気に変わった。「アリとキリギリス」のイソップの寓話は「現代には似合わない」とみなされ、他人の目を意識して「残価設定ローン」で楽々とベンツを手に入れ、追い越し車線を猛スピードで突っ走るような時代の空気に包まれた。

分を弁えず、実はないのに、「私はエライのだ」という気持ちになった。自己膨張した。ロレックス36回ローン、ベンツ残価設定ローンの36回ローン、ウォーターフロントの高層タワーマンションを年収10倍ローン。未来を先喰いして、誰かにその気にさせられた膨張ライフをエンジョイしようとしてきた。きっと大きくなるという期待値を先送りしてきた。
そんな「キリギリス」の生活がずっとつづくと思っていた現在と、必ずやってくると信じていた未来が突然消えた。ありたい未来が消えて、「膨張社会が分不相応だった」に気づかされた。

一方、周りが遊んでいるときに、そんなの格好悪いよと言われながら、「アリ」はコツコツと努力して勉強して働いた。時間はかかったが、実力を身につけた。そして絶対的な実といえる「分」=自分の価値をおしあげた。そんな「アリ」に、膨張時代ではあり得なかった活躍の場がひらけた。それは自らが手にした場なので、膨張ではない。ひとつひとつ実績を積み上げて、自らで分を広げて自分が考えているレベル以上の活躍が求められるようになっている。「アリとキリギリス」の寓話は生きていた。

2.風船が縮む人と縮まない人

コロナ禍で大変なことになった。どうしたらいいのか。

今勤めている会社、これからどうなるのだろうか?次が見えない。だから今の会社にしがみつく。しかしみんながしがみついたら、花に虫が群がり枯れてしまうように、会社だってもたなくなってしまう。会社が無くなってから、これからどうしょうかでは遅い。

そうならないようにと、良い会社に転職するために、起業するために、キャリアアップ教育・リカレント教育・資格取得をめざす人がいる。勉強することは悪いことではない。しかし勉強するといっても、なんのために、なにを出口に、なにをどう学ぶかである。その多くは、膨張社会の延長線上の教育・勉強が大半で、コロナリセット後を生き抜ける実力がつくとは思えない。

膨張社会には、自己申告型の人が多かった。
これができる、あれが強い、それが得意。
これができると言うのならば、これができなければいけないのだが、社会に通用するものではない。あれが強いというのならば、あれを見せなければけないのだが、世の中で通用するものではない。言うだけの人が膨張時代には多かった。「自分は言うだけ、やるのはあなた」の人が多かった。上に登れるというのならば、実際に上に登ってから言わないといけないが、やったことがないのに言うだけの人が多かった。

ボクには、“才能”がありますという人が多かった。ワタシは、これができます、あれができますという専門分化した人が多かった。とりわけインターネット・スマホが、言うだけでできない人を粗製乱造した。スマホで検索した横文字ワードをつなぐのが上手だが、知的基盤が弱いから、なにを言いたいのかが皆目分からない自己陶酔の人が圧倒的であった。膨張社会はそんな人を大量生産した。

膨張した社会が縮小している。
しかし風船は一律ではない。同じ世界、市場、業界にいても、膨張した風船がすっかり縮んでしまっている人・会社が多いが、ほとんど縮んでいない人・会社もある。とすれば、その人・その会社はもともと膨張していなかったことになる。風船がどれだけ縮むのかは、その人、その会社の「実力」次第である。

しかし大半は前者である。どんどん風船は縮んでいく。
これまでなんとかやってきたから、これからもこのままでやっていけるという幻想を抱いて、みんな一緒、みんな平等、責任を不明確にして、風船を膨らませてきた。

コロナ禍となり、テレワークとなり、リモートワーク、分散ワークがはじまった。1年やってみたが、なにかうまくいかないと言いだした。やっぱりみんな集まらないとだめだ。オンラインでは伝わらないから、やっぱりリアルじゃないと言い出した。しかし順調に業績を伸ばしている人・会社もある。なにが違うのか。

本当の中身・自分の「実力」が問われるようになった。
たしかに移動制限、営業自粛、緊急事態宣言で、事業環境が厳しくなったのは事実。同じ市場、業界、地域でも苦戦している人・会社が増えるなか、コロナ禍のなかでも伸びている人・会社もある。なにが違うのか。

かけっこをして、みんな一緒にゴールをするというような社会になってしまっていた。遅い子、怠けている子をみんなでひっぱっていく社会になっていた。それは決して悪いことではないが、問題は遅い人、できない人に合わす社会になってしまったのではないか。

本当はそうであってはいけなかった。一所懸命に努力して成果をあげた人・会社が果実を手にする。そうならないといけなかったのに、そうならなかった。いや、競争はあった。たしかに学校では受験戦争はあったし、会社や役所や大学でもビジネスでも競争はあった。しかし基本は「みんな横に並んで一緒にゴール」の空気が流れていた。

それがコロナ禍で、これまでがリセットされた。しかしそう認識するかどうかで、差がすでに開いている。

3.わらしべ長者

会社や役所では、「上が決めるので」「上に言っておきます」「上の偉い人」というような言い方をする。上とは誰か。支店長だから部長だから役員だから社長だからといっても、偉くない。上・上と持ち上げる人は、上についていったら、いつか自分がその上になれると思っていた。それが約束された会社世界での常識と思う人が多かった。

その約束されていると思っていた未来を夢見た膨張社会だった。派閥の長についていけば、上の人に従っていたら、きっと出世できると思って頑張った。”期待しているよ”といわれて、無理難題でもなんでも受け入れ、残業して家族を犠牲にして、飲みたくない酒を飲み、したくもない休日ゴルフをして、本当は自分に「実力」がないとわかっていたが、時期が来たら「上=偉い人」になれると思っていた。だからこそ、きっとおとずれると思った未来を先喰いした「残価設定ローン」ライフを多く生み出した。

今までは簡単だった。「上」についていけばよかった。それが変わった。自分の実力が問われるようになった。実力で生きていけるような修練をつんでいかねばならなくなった。しかしどういう修練を積み上げたら、先にどのようにつながっていくのかがわからない。

それはそうだが、「わらしべ長者」のように、人生において無駄になることはない。その場その場において、一所懸命に取り組むこと。ゴールが見えないから努力をしないのではなく、まず努力すること。努力は「わらしべ長者」のように、次につながる。

「これから、私はどうしたらいいのですか?」
そんな真っ白で問うのではなく、自らの分を弁えて、まずもがく。もがいたら、なにかが見えてくる。現在は膨張社会ではない。誰かが未来に連れていってくれるのではない。オンライン・デジタル・DX時代といっても、その人に「実」がなければ、次には進めない。


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