「大学」再考 〜大学受験をやめてみる、という未来
お疲れさまです。uni'que若宮です。
先日、SNSでこんな投稿をしたところ、思いの外共感の反応をいただきました。
教育のあり方については個人的にも色々思うところがあり、
・正解のない教育
・教育と社会を接続する
というのを個人的テーマに、大学で講演したり、「アートシンキングの学校」のように学校外での学びの場をつくったりといろいろアクションも起こしているのですが、
いろいろ考えていくと、実はいま改めて「大学」のあり方をしっかり考え直したほうがいいのでは、という気がしてきています。
「大学」はなんのための場所?
先日、こんな記事が話題になりました。
「大学」のあり方を語る際、よく問題になるのが、大学とは学生になにを提供すべき場所なのか、ということです。永守さんは率直な物言いをする方なので、大学がビジネスのための養成所のようにも聞こえ、しかもそれを怠けているとも取れる発言に、教員などからも反感が大きかったのだと思います。
日本電産の会長・CEO(最高経営責任者)の永守重信氏が「カンブリア宮殿」(テレビ東京)のなかで、経営学部を出ても経営のことを全く知らず、税金のことも何も分からない新卒学生が多いと苦言を呈し、「名刺の出し方も知らないという人が毎年何百人も出てくる」などと発言したことがSNSなどでボコボコに叩かれているのだ。
アンチいわく、「大学は専門教育の場でビジネスマナーを教える場ではない」「採用をした企業側が責任をもって一人前に育成するのが筋だろ」などとカリスマの考え方を全否定。「自分たちは何もしないで学生側に多くを求める日本電産はブラック企業だ!」などと激しく罵(ののし)る人たちまで現れる始末なのだ。
「大学は専門学校ではない」というのもよく言われます。このような言説の裏には大学は「純粋に学問をする」ための場所だ、という大学側の矜持もあるように思います。
ですが僕は、このような大学の純粋性の幻想を改めて考え直してみてもよいのでは、と思っています。そしてそれはまた、大学の社会との関係を考え直すことでもあります。
「教育」と「社会」の分断
「大学は専門教育の場でビジネスマナーを教える場ではない」「採用をした企業側が責任をもって一人前に育成するのが筋だろ」
このような批判について改めて考えてみたいのは、ビジネスマナー(ちなみに形骸化したビジネスマナーはくそだとおもっていますが小声)や社会人としての「育成」は果たして本当に企業だけの責任なのか、ということです。
「大学は学問のための場所」という理念はわかりますが、実態はどうでしょうか。
学部の卒業生の大学院進学率は10%内外。逆にいえば90%以上の学生は大学を出ると就職していくわけです。さらにはっきり言ってしまうと、大学に入ろうとするのは「いい会社に就職するため」であり、大学は実態としては「就職のための切符」になっている。教員も学生も親もほとんどの人が、大学入学の目的がほぼ就職のため、ということは否定できないのではないでしょうか。
大学に入る目的はほとんどが就職なのに、就職してからのことは教えない。これ普通に考えると結構おかしくないですか?内実を考えるなら仕事のためのスキルを教える専門学校よりもある意味で空虚ですらあります。
それに「社会人」というように働く未来の人材は社会の資産です。大学だってそれに協力してもよいはず。
日本では高等教育を終え、大学を卒業すると「新卒一括採用」という仕組みで就職し、そこでまた振り出しに戻るように「社会人一年生」になる。要は「教育は教育」「社会は社会」と、別世界のこととして分断されているわけです。
ときどき「高校生起業家」や「年収1千万超え中学生」とかが物議をかもし、「学生の本分は勉強だろ」というようなことが言われます。要は「教育中は稼ぐな」というわけなのですが、こういうのも、日本の教育における純粋性妄想の一端だと思います。そんなに社会が汚れているのかと言いたくなりますが(まあそう言いたい気持ちもわからんでもないですが)、いずれは社会に出ていかなきゃいけないのに「教育」中は「社会」に触れないようにする、というのは、無菌室で育つと免疫がなくなり外に出た時に弱いように、危ないところもあると思っています。
「教育と社会を接続する」というのを個人的テーマにしているのもそういう違和感があるからなのですが、これからは「教育」においても「お金を稼ぐ」ことや社会の様々な答えのない問題と(時には学校の外で)なまに接する機会を今まで以上につくる必要があるのではないでしょうか。
大学の社会的意義
自分自身でもuni'queでもいろいろ働き方の実験をしていますが、新卒一括採用や一社への「就社」、終身雇用が終わりを告げ、「ジョブ型」にシフトし、複数の場で価値を発揮してサーバイブしていかなければいけない時代がやってきています。
以前大学教授をしている知人から「これからの学生のキャリアを考えた時、大学は何をしていくべきか」という相談を受けたことがあります。
働き方が大きく変わる時代だと聞いているし、これから社会に出ていく学生たちをどうサポートしたらいいだろうかを考えている。しかし自分はそもそも一般企業に就職したこともないし、社会における人材ニーズや環境の変化があまりわかっていない、ということもおっしゃっていました。僕はその話をきいて大学の中にいながらその特殊性や課題をちゃんと考え、変化のアクションをしようとしている方たちがいることにとても希望をもったのですが、たしかにアカデミックな業界というのはいわゆる「社会接点」がやや少ないように思います。
この点は異論もあると思いますが、僕自身は「大学は本来、もっと社会にどう貢献するかを考え、自分たちの研究の社会的価値を意識していくべきではないか」と思っています。
ただ、この「社会的価値」というのは単に「ビジネスマナー」だとか「即戦力」として活用可能なノウハウのことを指しませんし、「儲かるビジネスに使えるネタ」でもありません。学問や研究の価値は短期的効果ばかりではないし、むしろ長期的効果の方こそ本質的価値ですらある、と思っています。
たとえば僕が学んでいた「美学芸術学」という学問は「虚学」の代表のようなもので、なんの役に立つのか、と言われることもあります。いわゆる「理系学科」だと研究成果が製品に使われたり特許が取れたりするのですが、それと比べると「社会的価値」が(間接的で時間軸も長いので)わかりづらい。「虚学」とまでいわなくても、大学で教わる専門教科の多くは「直接に・すぐ」企業で役に立つものばかりではありません。
「君のお勉強のために、国は税金を使っているのではない」
とはいっても、僕は大学での学びに意味がないと言っているわけではありません。何なら大学に二回いっているくらいで、むしろ人よりもかなり強く大学は意味のある場所だと思っています。
前述のように、大学は実態としてはほとんど就職のための場所でありながら、社会とのスロープがなく大きな段差がある状態であり、かつ大学で学んだことは「直接・すぐ」役立つものはあまりありません。
しかし、それにもかかわらず、大学はとても大きな学びを得られる場所だと思っています。そしてそれは「自ら探求する」ことを身につける場所だと思うんですね。
これは自分自身の実体験から思っていることです。
僕は建築士として働いたあと、26歳のときに文学部に入り直したわけですが、年下の学生に混じっての気負いもあり、我ながら結構気合いを入れていました。一回目の大学のときはほとんど大学にいっていないぐうたら学生だったのですが、自分で学費を払って通うと本気度もちがいます。
ですがその気負いを、初めての演習の授業で木っ端みじんにされることになります。
その授業は、教授の指定する課題図書の中から一冊を選んで授業で発表する、という演習でした。気負いから鼻息の荒かった僕は自ら立候補して、初回の発表を引き受けました。清水幾太郎の『論文の書き方』という本だったのですが、とにかく熱心に本を読み込んでレジュメをまとめ、意気揚々と発表をしたわけです。
なかば「どや顔」で発表を終え、学生同士の質疑を終えた後、教授から総括的にコメントがありました。
「よくお勉強しましたね」
おお、頑張った甲斐あって褒められるか?最初から高評価か?と内心ガッツポーズをとりかけていると、教授はこう続けたのです。
「だが、それではただのお勉強だ。君のお勉強のために国は税金を使っているのではない。大学はそういう場所ではない」
僕は正直、最初「は???」と思いましたよね。え、こんなに頑張って準備したのに褒められないの?と思いました。教授は追い打ちをかけるように続けます。
「大学というのは研究をする場所だ。研究とはなんらか自分なりの視点を社会に付け加えることだ。君はお勉強を頑張ったけれども、君なりの視点がない」
概ねそのようなことを言われ、僕はそれはもう顔から火が出るほど恥ずかしくなりました。ぐうの音も出ないほどその通りで、「お勉強」をして悦にはいっていた。それどころか「褒められる」ことを期待してさえいた。自分の視点をもつどころか評価を期待していたわけです。それも10代ならともかく、一度社会人をしたあと20代半ばにして、わざわざ大学に入り直したのに、そんなこともわかっていなかった。僕はいままで何をやってきたのだ。
この出来事は大きく僕の人生を変えてくれました。そしてその後の大学、大学院では「自分なりの視点」をもつこと、自分なりの価値をなにか社会に付け加えることを強く意識しました。諸事情あり学問を離れるわけですが、いまでも新規事業をし続けていたり、その結果「アートシンキング」にいきついたのも、あの時の演習があったおかげだと思います。アートの研究が社会人になって「直接・すぐ」役立ったわけではありませんが、その学問を通じて身につけた「探究のモード」は非常に大きな価値をもっています。
だから僕は、大学が学生に提供するべきことはまさにこのこと、自分なりの視点をもち「自ら探求する」モードを身につける機会をつくることでは無いか、と思うのです。
「大学受験」で失われるもの
お受験でも就活でも、日本はとても「入口主義」です。
入口はあくまで入口にすぎないなのですが、「落ちる」と人生からもドロップアウトしまうような錯覚とプレッシャーにさらされている。入口を通ることに価値を置きすぎるがゆえに、早くは幼稚園から、小中高の学校教育を通じて「受験」のために「正解」を学びつづける、ということになっている。
そして本来探究のための「大学」なのに、そこに入るために「正解」を当て続けるうちに失われることがあります。それは知識の使い方と疑い方です。
本来、知識は道具にすぎません。それは知性そのものではないどころか、しばしばその邪魔にすらなるものです。3 x 8 = 24という問題に正解を出せるかどうかではなく、それを使ってなにをできるか、「知識の使い方」こそが重要です。道具の使い方を磨いていくことが大事なはずなのに、道具をありがたがって神棚にかざるようなことをしている。ほんとうは壊れるくらい使い倒すべきなのに。
そして「お勉強」に慣れてしまうと「知識の疑い方」もわからなくなってしまう。「知識」は沢山の人がつくってきたもののの積み重ねではありますが、天動説が誤りであったように絶対の「正解」ではありません。「自分ならではの視点」をもつためにはそれを疑うことが必要です。しかし「大学受験」という入口をくぐるための「正解当て」ばかりをやってうちに、そういう視点を持てなくなってしまうのです。
学びたいときに学べばいいのではないか
いま「教育」はどうも消費的なものになってしまっています。少子化は進み、誰もが大学に入れる「大学全入時代」といわれていますが、一方で親の収入で教育機会が左右され、このままでは教育格差はより深刻になってくるでしょう。この状況をどう考えるべきでしょうか。
もしこれまでどおりいくと、さらに閉塞的な状況になりかねません。「大学に入るのが当たり前」というのは裏を返せば「大学に入れないと落ちこぼれ」という感覚を起こします。親が無理をして塾に課金し、奨学金という名で借金をしてでも大学に入るのは、そこから排除される怖さのためです。
しかしもし考え方を変え、大学を「自ら探究する」ための場所、と捉え直せば、状況は変わるのではないかと思うのです。みんながチキンレースのように本質的な意味があるかわからない「切符」を追い求めるのをやめ、「大学受験」という一律のゲートを辞めてしまえば、小中高でも受験のための正解ドリルだけでなく、自由にそれぞれの視点を伸ばすような教育ができるかもしれない。
「大学受験」→「新卒採用」→「一社に就社」→「終身雇用」という昭和型の構造は崩壊しつつあり、下流側から前提が壊れてきます。世の中がモノと情報に溢れ、これまで以上に自分らしいユニークさが価値になってくる時代では、「大学受験」という一律の門に縛られることはナンセンスではないでしょうか。
繰り返し言いますが、僕は「大学」に意味がない、といっているわけではありません。一律の「受験」をやめ、もっと社会との接点をもち、「探究のモード」への機会を最大化するように再設計すべきでは、と考えているのです。
人生100年時代、「自ら探究する」タイミングは一律でなくてもいいはずです。僕自身、一度目の大学では探究のモチベーションどころかお勉強のモチベーションすらなかったぐうたらでしたが、社会人を経て、自分の関心で大学を選んだ二度目の大学では、本当にたくさんのことを吸収できたし、人生を生きていくための力を養うことができました。デンマークのフォルケホイスコーレのように社会人を含め多様な世代が同じ学び舎に集う、というのは新しい新結合が起こる可能性も増やすと思いますし、こちらの記事にあるようにコロナ禍でのオンラインシフトによって大学がより開かれ、社会と接続される機会も増えるかもしれません。
もちろん、探究の大事さに気づくのも早いに越したことはないでしょう。
しかし「一律のベルトコンベアー」にのってそこから落ちたら最後、というようなあり方や、にもかかわらず家庭環境で機会に大きく不均衡がある現状、そしてさらに無理してまで入った「大学」が「探究」や「社会的価値」のための場所になっていない、という状況について、とくに「いま親の世代」は改めて考え直してみるべき時期に来ているのではないでしょうか。
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