「センス」をあらためて考えるー連日の猛暑で思うこと。
今回は「センス」について考えてみます。
センスというと、美的センスや味覚センスなど五感と関わる領域が多いです。お金のセンス、経営のセンスとの表現は、論理的なレベルでは叶えられないことへの勘を指しますから、いずれにせよ人の感覚器官と繋がったことを言うのでしょう。あるいは、繋がっているだろうと人に想像させる意図も含むかもしれません。
センスの話を持ち出すのは、民主的や大衆的というフラットをイメージするカテゴリーと衝突しやすいです。何か特権的な、あるいはエリート的な匂いを、本人が自覚せずとも、周囲の人が感じ取るのです。
思い起こせば、小学生の時に「絵は自分の描きたいと思ったとおりに描けばいいですよ」「文章も自分の書きたいように書けばいいのです」と教師に耳にタコができるほどに言われましたが、あれも民主化教育の一環で、「センスは不要」の裏返しだったのでしょう。
さて、およそ20年くらい前から、デザインに関与する人たちが戦略的に「デザインにセンスは不要!」と強調するようになりました。これには理由がありました。デザインが何らかの問題を解決するためのツールとして貢献する、ということをクリエティブ領域の人たちが強調するにあたり、「デザインは専門家のみならず、一般の人たちにも使えるものだ」と語りました。
審美性に優れた人が独占するデザインという固定観念をそうやって打ち破りながら、デザインの民主化(結果としてみると、ある意味、大衆化)が図られてきたのです。「デザイン思考」がビジネスや行政と市民活動の世界に普及していった時期と重なるのは偶然ではありません。
2017-8年頃からかなり日本で特殊にはじまった、ビジネス界で「アート」に目を向けるようになった現象の遠因として、当時、デザイン思考の普及で生じた「審美性やセンスなき世界観」への反省があったと想像しました。が、実際のところ、その反省の弁で語られる範囲は未だに極めて限られていると思います。
一つ、ぼくがそう思う例を挙げましょう。センスと欧州のサステナビリティ動向の関係から想起することです。
EUのルールメイキングが世界各国の価値構築をリードする、あるいは特にスカンジナビア諸国の環境意識の高さ、こうした要素が、欧州の行政やビジネス、または一般の人々の本テーマに対する関心の深さに直結していると思われている節があります。
言うまでもなく、上記に否定すべきフレーズはないですが、これだけを正解と理解していると大きな勘違いです。「明確な理念に基づいた合理的な戦略」のみで現状のような進展があると認識すると、そこに落とし穴があるというわけです。
ぼくが欧州で日常生活を送っていて思うのは、ここで進行しているサステナビリティ動向とは、かなり「センス」との絡み合いが多いということです。
以下の記事はForbes JAPANにベイン&カンパニーのラグジュアリー報告に関する解説を、ぼくが書いたものです。この報告のなかに「消費者は“less but better”(少数のより良いもの)を求め、時計やジュエリーなどのカテゴリーで高成⾧を記録」との記述がありました。
ぼくは、この部分に以下の解説をつけました。
このモノを買わないという行動の選択には、合理的な判断もありますが、どうも、「なんというか、どうしてもモノに手を出しずらいなぁ」という感覚的な躊躇をみます。サステナビリティという頭のなかにあるコンセプトを参照せず、です。これは、「センス」としか言いようがない。ですから、サステナビリティ動向は、ある程度、この躊躇の集積という解釈も可能かと思うのです。
日本の人があることの消費や購買に「もったいないな」とか感じるようなレベルがあります。それも、あえて「もったいない」とは口に出さない。“less but better”は、そこに近いです。生活美学とか、ビッグワードとは距離をもちながら、「自然と、そういう態度をとってしまう」と表現すればよいでしょうか。
日常生活の感覚の集積と集合がとある方向を示すと、「文化」と称されるものになっていきますが、欧州のサステナビリティ動向とセンスの関係は、このようなコンテクストで認識しないと理解しづらいと思います。この文化も、決してハイカルチャー的なものとしてではなく、です。
これが前述した、「審美性やセンスなき世界観への反省の弁で語られる範囲は未だに極めて限られていると思います」と指摘したことの具体例です。今週も世界各地で記録的な猛暑が続くなか、気候変動対策に審美性やセンスがどの程度に重要なのかをボンヤリとでも考えるのが良いかと思います。
写真©Ken Anzai