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「不便なお店」礼賛

食いしん坊である。私にとって朝ごはんは、仕事や急なスケジュール変更に振り回されない唯一の安らぎごはん、良い意味で孤独で、神聖な儀式だ。ゆえに、ハンドドリップするコーヒーや手作り野菜スープ、パンに結構こだわっている。

そのこだわりパンを求めるのが近所のKというパン屋だが、このパン屋が半端なく不便である。まず、営業日が少なく、火曜、金曜、土曜のみ。しかも午後遅く行こうものなら大抵何も残っていない。店は住宅街にあり、奥でパンを焼くキッチンと二畳ほどのお客さんエリアが一体化しているが、あまりにも狭いため、一組お客さんがいると外で待たされる羽目になる。こんなお店だが、とても流行っていて、無事にX周年を迎えたそうである。

果たしてこんなお店で、令和時代に居場所はあるのだろうか?実はこの不便さが新しく、これからの小売にとってひとつのモデルを示していると考える。

まず、小さな独立したお店が経済性を保てるのは、令和ならではだ。ふた昔前ならば規模の経済を誇るチェーン店に追われ、一昔前ならばそのチェーン店もネットに押されていただろう。しかし、SNS普及で小さなお店も大企業と互角に情報発信ができるようになった。むしろ個性のあるお店のほうがマスブランドより人気である。パンのような生鮮品でなければ、リアル店舗での商いをオンラインで補うことも可能だろう。さらに、これから3Dプリンティングが当たり前になれば、小さなスケールで「工場」まで持てることになり、設備投資の壁さえ超えられてしまう。

次に、平成の停滞を通じて、消費者を取り巻く価値観が変わった。かつては、大量消費こそ是。したがって消費者は王様で、品質、価格、サービスを求める大義のもと、どこかサプライヤーを目下にみなす風潮があった。こんな考え方は古くなり、いまやコミュニティ全体が潤す利潤の循環が求められている。過重労働が指摘されるコンビニ24時間営業も、同情こそあれ、「なくなったら困る!」という声は少ないようだ。一日百食限定の「百食屋」の成功には、キッチンで働くシングルマザーや障碍者に対する応援が含まれているだろう。

最後に、「不便」なこと自体が、これから逆説的に価値をもたらすのではないかと考える。なんでもワンクリックでドアまで届くEコマースは確かに便利だが、あまりにも摩擦が少なくて、どこか拍子抜けしてしまう。面倒なことにこそ価値があり、摩擦にこそ生きる意味があるならば、不便な店の手触り感は貴重だ。実際、パン屋Kにしても、少ない営業時間にうまく間に合い、お目当てのパンをマイバッグに入れる充実感は、ワンクリックとは比較にならない。顧客満足度とは、厄介なものだ。
では、不便なお店の勃興は、昔ながらの地元商店の復活を意味するのだろうか?商店街を彩った本屋、豆腐屋、魚屋、乾物屋はとうにスーパーマーケットに置き換えられてしまった。しかし、消費が成熟したいま、私たちは敢えて再び「不便なお店」を欲していると思う。

しかし、この流れが主流になるためには、供給側が充実する必要がある。こだわりの店を始めるローカルな起業が普通のこととして受け止められるようになれば、学校を卒業して就職先を探すだけがオプションではなくなるはずだ。アイディアとこだわりに少しの元手があれば、「XXしかない」または「営業時間限定」のお店は十分成り立つ。IPOで一攫千金を狙うのでも、アプリを開発するのでもない、古くて新しい起業の形がありそうだ。不便なお店は画一的な長時間労働を前提としないので、日替わりのアルバイトよりも、オーナーやごく少数の店員が長く細く働く形が一般的だろう。そこにはコミュニティの温かみが生まれる。

なんでもそろうEコマースよりも、不便でもずっと付き合いたいリアルの店。こんなお店をいくつか持つことで、令和の消費者ライフは豊かになるだろう。

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