自分の「良さ」を意識し続けるのは、なぜ難しいのか
「良さや強みを見つけて、伸ばしていこう」という言葉はそこらじゅうで反響しています。キャリア開発においては古くから「良さ」「強み」を重視した考え方が根付いています。
転職支援サイト「Wantedly」では独自開発した性格診断機能を追加したと発表されています。転職活動のなかで自身のスキルや性格を分析する手段として活用されることを想定しているそうです。これも「良さ」や「強み」に焦点化する考え方の現れだと言えます。
しかし、自分自身の立脚点になっているはずの「良さ」に目を向け続けるのは、とてもむずかしいなぁと思うのです。何かの診断を活用したり、どこかで研修やカウンセリングを受けて「自分自身の良さ」に注意が向いたとしても、日々の生活のなかでは気づいたら「自分の至らなさ」や「できてなさ」にばかり目を向けてしまいます。
「良さ」を意識し続けることは、そもそもなぜこんなにも難しいのでしょうか。今日はこの問題を考えてみたいと思います。
クヨクヨする〈自分1〉と、叱責する〈自分2〉
ぼくは今、人と組織の可能性を開く経営コンサルファームMIMIGURIで、コンサルティング事業のプレイヤーと10人チームのマネージャー、そして自社の組織開発室を兼務しています。
日々業務をしていて、自分自身に対して「ここが良さだ」という自覚がなかなか芽生えてこないというのが最近の悩みです。問題や至らなさばかりに目が向いてしまいます。
そのうえさらに厄介なのは、「自分の至らなさにばかり目を向けていてはダメだ」という二重の否定が自分の脳内で起こることです。
「自分の至らなさ」に目を向けてしまう〈自分1〉と、「強み」や「良さ」にフォーカスすることを信条とするができていないことを責める〈自分2〉がいるのです。
〈自分1〉は今日やらかしてしまったことや、他人から注意を受けたことを繰り返し思い出し、ずっとクヨクヨしています。それを〈自分2〉が「自分にダメ出しばかりしてダメなやつだ!もっと良さに目を向けろ!」と叱責する関係です。
このようにして、「自分はダメだ」「ダメだと言ってはダメだ」という二重の否定が起きています。
みなさんはこんなうるさい〈自分1〉と〈自分2〉が脳内に住んでいますか?こんなにうるさいのはぼくだけなのかな。いずれにせよ気になるのは、彼らはどこからきたのかということです。なぜこの2人はぼくの脳内で育ち、今も元気に落ち込んで叱責し続けているのでしょうか?
「退行的関係」と「生成的関係」
この問題を考えるために、「退行的関係」と「生成的関係」の2つの言葉を手がかりにしてみます。
「退行的/生成的関係」は、『何のためのテスト 評価で変わる学校と学び』という書籍のなかでケネス・J・ガーゲンとシェルト・R・ギルの2人が用いている言葉です。
ガーゲンは「関係のプロセスは個人という概念に先行する」と考える社会構成主義の第一人者です。ここは小難しいのでぼくもよくわかっておらず、なんとなく「相手との関係から全て始まるという考え方」ぐらいに理解してます。
ガーゲン+ギルは、本の中で「退行的/生成的関係」を表現するために一つの事例を出しています。ラリーという生徒と先生のやりとりです。
先生が「宿題をやってこなかったね」と事実として指摘した時、ラリーがどのように応答するかでその言葉の意味が変わってきます。
ラリーが①のように答えたら、先生の言葉には「注意」という意味が付与されます。②のように答えると、先生の言葉は「横暴」なものであるという意味が与えられています。③のように答えたら、生成の言葉は「思いやり」のある助け舟であり、ラリーは先生に助けを求める関係になります。
これが「関係のプロセスが個人に先行する」とする社会構成主義の考え方になります。ひらたくいえば「相手の対応によって言葉の意味が変わる」というものです。
そしてお察しの通り、①と②は「退行的関係」、③が「生成的関係」ということになります。とくに②の関係は、関係を終わらせる方向に走っていきます。もちろんこの本は、「退行的関係」をしりぞけて「生成的関係」を作ることを提案するものです。
「退行的関係」の内面化
さて、この「退行的関係」は教育のなかで反復されています。
小中高とぼく自身も先生によく注意される子どもでした。長くこうした教育のなかにいたことで、こうした退行的関係を自分の中に内面化しているのかもしれません。これが、「良さ」に意識を向け続ける難しさを生んでいるのかもしれません。
それゆえに、ちょっとした失敗や至らなさに対して「これは注意すべき失態である」「してはならない失敗である」という意味を付与してしまう<自分1>が生み出されたと考えてみます。
さらに、「強みや良さにフォーカスするべきだ」という言説を鵜呑みにした<自分2>が生まれ、<自分1>に対して退行的関係をつくってしまい、<自分1>に謝らせつづけていると考えてみます。
もちろん、こうした内面化に加担しているのは教育だけではないでしょう。
組織開発においても長らく「問題解決アプローチ」が採用されています。組織の状況をサーベイし、事業成長を妨げる「問題」を発見し、要因を特定して改善を現場にもとめています。
そのため、問題解決型の組織開発アプローチは、「組織開発的な介入が人事からあったら、私たちに落ち度があったということか」という「注意」の意味合いを想起させます。こうした組織活動のなかにも「退行的関係」を生み出すトリガーが溢れている可能性があります。
自分と「生成的関係」を結ぶには?
では、どうすれば自分自身と「生成的関係」をとりむすべるのでしょうか。ガーゲン+ギルが「生成的関係」の事例として提示したラリーと先生のやりとりパターン③をあらためてみてみます。
ここでラリーは、先生の言葉を、援助を求めるきっかけとして意味付け、援助を求めています。先生とともに「わからない」という問題にむかって一緒に解決してほしいと呼びかけます。
これに対して先生が「自分でやりなさい」と突き放せば退行的関係になります。しかしここで先生が、ラリーが今理解できている部分を理解しようとし、わからないと感じているラリーの心情に関心を寄せ、共にその状態を変えていこうとするならば、「生成的関係」が育まれていくでしょう。
さきほどのように「至らなさ」を反省すると、「強みと良さにフォーカスできていないこと」を叱責する〈自分1〉と〈自分2〉の関係においても、〈自分1〉は自分自身の良さに基づいて問題解決をするための援助を求め、〈自分2〉がそれを支援するような「生成的関係」をつくることができれば、脳内で大反省会が行われることはなくなるかもしれません。
人に言われた「良さ」が「生成的関係」のタネになる
それにしてもよくわからんことを書いたなと自分でも思います。具体的にじゃあどうすりゃいいのよ、というところはよくわかりませんし、正直、「自分の良さを意識し続けるのはなぜ難しいのか」はまだわかりません。
ただ、自分の強みとか良さとかそういうことのまえに、やってきた経験があるはずです。「いい」「わるい」の判断のまえに「やってきたこと」があるだろうと思います。
もちろん、その経験のなかで、うまくいったこともあればいかなかったこともあるでしょう。しかし、なにかをよくしようとやったことだと思うわけで、それをすべて失敗だったと意味付けてしまうのは勿体無いと思います。
その「やってきたこと」を自分で承認していくためには、その過程を知る仲間や友人に、自分の良さがなんだったかを教えてもらうのも有効なのだと思います。
他人の言葉が、自分のなかに「生成的関係」を育むタネになる。そのタネを集めることが、日々積み重ねられることなのかもしれません。