不安な令和における「絶対悲観主義」という一縷の光明〜「大丈夫、心配するな、きっとうまくいかないから」〜
絶対悲観主義になってみえる光明
相手があり、そしてその相手が異なる性という謎の存在である恋愛なんて上手くいく訳ない、ましてやその延長としての結婚という他人との共同生活なんて上手くいく訳がない。
就職(転職)決まって、朝会社に行ったら部屋や机や椅子、文房具やPCまで支給されて毎月決まった額が給与として支払われる、仕事に関係があれば飲食しても会社が経費で持ってくれる。そして犯罪でも犯さない限り、生涯クビになることはない、こんな夢の様な話しには裏か、とんでもない苦労があるに決まってる。
一見暗いようだが、ある種現実というのはそういうものでもあるし、そう思っておいた方が気が楽だし、万が一その現実がそれほど悪くなかったら、もう最高だ。
「事前の期待のツマミを思いっきり悲観に回しておく」事だけで、それ以上悩む事なく淡々と現実的にやるべき事に向かう事が出来、さらに上手くいけば、ちょっとは良いことあるかもしれない、さらに、やり続けているとやりたい事ができる様になっているかもしれない、
そうした不安な令和を生き抜く新しい仕事哲学を記した本が先日出版された。
著者は、最初に絶対悲観主義を取ることで、自分の大切な個を、社会によって傷つけられる事なく徹底的に守り抜く。そしてそこから自分が本当に大切にしている事に向き合って少しづつ行動して修正していけば良いと、著者は言っている。
日本人にとって、社会を楽観的にとらえ迎合することで帳尻が合うと思っていた昭和の時代が長すぎた。
そもそも、そんな甘い訳はない。
社会に対して絶対悲観主義(絶対現実主義)でリアルを見定めて、重心を低くし、相手のパンチを避け、エネルギーを蓄え、最後にしたたかに自分のコントロールできるゾーンまでひきつけて自分の得意の左フックを打つのだ。
タイトルの印象と異なり、読みながら笑いが耐えない。
そして、最後に人生の覚悟のようなものが定まる爽やかな読後感がある。
令和版「私の個人主義」
また、この本を読むと100年前、大正3年の夏目漱石の学習院大学での講義「私の個人主義」を思い出す。
漱石は、ここで個人主義と利己主義の違いを述べている。個人主義とは、自分の個性を追求し、他人の個性も尊重すること、利己主義とは、自分個人のために権力と金力で他人を押さえつけること。
「個人の自由は、個性の発展のために極めて重要であるため、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差し支えないくらいの自由は、お互いに持っていよう」というものだ。
漱石は、個人主義においては、どの党派に属しているかよりも、個人としての「理非」、道理を大切にして判断することが重要と記している。「絶対悲観主義」に貫かれているのもこの漱石の主張と同じ健全な個人主義だ。
「好きにしてください」の個人主義の著者だが、その社会に対する深い洞察そして倫理観、そして「品」とはという美意識が、読み進めるうちに徐々に染み渡ってくる。
大学教授による教養本はどこへ消えた?
思えば、昭和の頃はこういう肩の力の抜けたでもやはり深い知性を感じさせる学者のエッセイがたくさんあった様に思う。
梅棹忠夫氏は、生態学者、民族学者、情報学者、未来学者として著名な知の巨人だが「知的生産の技術」は、氏の生誕100年、没後10年、そして出版50年という節目に100刷を超え話題になった。
外山滋比古の「思考の整理学」は37年経っても今も売れ続け124刷、254万部(2020)のロングセラーだ。
突き抜けた知性が書く、仕事術や発想のコツとかなのだが、滋味深い人生哲学の話にもなっている。
(最近は専門分野の論文執筆のみに多忙なのか、専門外の事を書くと怒られるのか、あまりこうした大学教授の書く教養本を見ない。)
この本は、そうした類のホンモノの知性が書いた「不安な令和をどう生きるについて書かれた現代のロングセラーエッセイ」だ。
(発売後、まだ4日しか経ってないけど)
追記1:著者楠木建さんについて
著者楠木建さんは、実は大学のゼミの3つ先輩だ。
この本に書いてある通り、楠木さんはパーティーは苦手で、実社会でほとんど顔を出さない。
お互いが社会人になってから会ったのはゼミのOB会パーティーとかの2、3回だと思う。もちろん仕事を一緒にした事も、仕事をしている楠木先生を見た事もない。(大学のゼミの代講で授業を数回してもらった程度)
パーティーでたまに会うと
「安川はさー、最近は何やってんの?」と声をかけてもらえる。
こちらが「最近はですねーXXX」と話してると。
「ほうほうほう。そうなんだー。」
とだけ聞いてたかと思うと突然烏龍茶のグラス片手にスッ、
とその場を去る。
常に好奇心のアンテナは立てているが、あまりパーティーシチュエーションの会話にはあまり興味がない。
でも、たまに楠木さんがまさかのタイミングでピンと来たりするとその時はグイグイくる。無精髭にスキンヘッドで最高の笑顔で、「え?マジで?!それでそれでそれで。ほーほー。」と質問攻めに会う。会話の途中のそれも突然の事で、何に楠木さんが反応したのか、わからない、でも楠木さんが珍しく反応してる以上、話し続けるしかない。その話題は仕事や会社やましてや競争戦略論の事では誓ってない。
で、一生懸命話ししてると、また突然「なるほど〜」とだけ言って
烏龍茶のグラスとローストビーフのお皿持ってスッ
とどこかへ飄々と行ってしまう。
回収されないまま、句読点も打たれないままに、先程の僕の話しは、楠木さんの残したローストビーフのソースの香りと共にそこにしばらく漂っている。
但しこのスッの間が個人的にはたまらない。会話のまとめもリアクションも先輩からのちょっとした人生のアドバイスもない、後輩の会話に話を合わせる忖度もなく、
スッ
こう書くと冷たい人の様に思われるかもしれないが、決してそうではない。真面目に話すと思考は深く正しく、かつ厳しめの正論になるが、優しさもある、ただ最後は満面の笑顔で「好きにしてください」なのだ。
スッ
が、個人的にはたまらなく粋で大好きだ。楠木さんと仕事した人、学んだ学生/社会人が僕の後ろに100人オーディエンス席として座っていたら、おおおお、とボタンを押してくれていると思う。
数年前、会社を辞めて、ベンチャー企業に転職を決めた時、ごくごく親しい人を呼んでパーティーを開催した。パーティーには顔出さない主義の楠木さんも珍しく来てくれた。
楽しく話した後、サラっと個人ブログにその日の様子を勝手に書いてくれていた。
こんな感じにいつも、学生時代に学食でずっと話していた頃の様に楽しい。
楠木さんとは今じゃなくて良いから(別に連絡して会えば良いんだけど)いつか、あの世で会いたい。
「おー、安川、久しぶり!
それでそれで、お前が死んだ時の葬式はどうだった?ね?どうだった??」
「オレの時はさー○△□。もう大変よ、びっくりだよ。で、お前の時は、大学の時の元カノとか来た?」
「来る訳ないじゃないですか?!楠木さんの時は?え?ふむふむ….えーーー?マジっすか?」
「そうそう。大笑いだよ!」
とか、あの世の学食で、誰にも邪魔されず、プラスチックの茶碗で給湯器のお茶啜りながらずっと喋っていたい。というか、喋ってる気がする。
死んで尚そういう感じになりそうな、超越した「生き」方がこの本の言う「絶対悲観主義」なのだ、と勝手に解釈してる。
追記2:本書における私的専門用語
黒い巨塔・・如何に役職者にならずにヒラで居続けるかを巡って繰り広げられる組織闘争
名言業界・・日進月歩で毎日名言が生まれる世界
発表体質・・オーディエンスがいなくても、発表してしまう楠木建氏の体質
Gシフト・・週刊現代(Gendai)がジイサンに顧客ターゲットを絞っている事
横Gがかかる・・高齢者(G)になるとまだ見ぬ死に関心が傾斜していく
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