円安を延命させる中東リスク~迫力を失う「リスクオフの円買い」~
迫力を失う「リスクオフの円買い」
今年も残すところあと3か月を切ったところで、パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスによるイスラエル攻撃という地政学リスクイベントが世界中の耳目を引いています:
累次の利上げを経てもインフレ終息が見えてこない世界経済にとっては小さくない話と言わざるを得ないでしょう。筆者の元には為替市場、とりわけ円相場への影響を質す照会が多いため、本コラムでは為替市場を中心に現状と展望を簡単に整理したいと思います。
まず、直感的に想像された通り、10月6日(金)のハマスによる奇襲攻撃を織り込んだ週明けの国際商品市場では原油価格が急伸し、為替市場では産油国通貨であるノルウェークローネが買われました。具体的に数字を見ると、10月6日(金)と10月9日(火)東京時間午前に関し、対ドル変化率を比較した場合、ノルウェークローネは約+1.3%上昇しています:
なお、かつてこうした地政学イベントは為替市場における「リスクオフの円買い」を惹起したものですが、円は+0.6%程度と上昇しているものの、かつての迫力は感じられません。図示されるように、円の上昇幅はカナダドル、豪ドル、スイスフランとほぼ同じです。
この点、円と同様、安全通貨の代表格として買われてきたスイスフランも上昇幅が小さいではないかと思われるかもしれません。しかし、スイスフランは年初来の対ドル上昇率が+2%を超えており、「G10通貨で最強」という状態が年初来から持続してきた上での小幅上昇です。対照的に、同じ期間の円は年初来で▲12%と大幅下落している事情を踏まえれば、やはり反発力の弱さは否めないところです。
後述するように、真っ当に考えれば、円のファンダメンタルズにとって中東リスクの高まりおよび長期化は円安材料以外、何物でもない、というように感じます。多少の円高は一時的な反発に終わる可能性は高いと思います。
また、従前積み上がっていた投機的な円ショートの規模を考慮すると、やはり「リスクオフの円買い」はは限定的だったという印象が抱かれます:
中東リスク勃発前、10月3日時点のCFTC取引の状況を見れば、円の対ドルポジションは▲95.6億ドルと2022年3月に始まった今次円安局面のピーク水準に肉薄していました(最大は2022年4月12日週の▲111.5億ドル)。投機的な円売りがこれほど積み上がった上で、大きな地政学リスクが勃発したにもかかわらず、+0.6%程度しか上昇しなかったという見方も可能です。
本件を受けてこれらの円ショートポジションはある程度巻き戻された可能性が想像されるものの、貿易赤字に象徴される「実需の円売り」が相応に存在する中で、円高の動きが限定されたという解釈は十分考えられます。
なお、今回の一報を受けて円高が進んだのはあくまで「リスクオフの米国債買い→米金利低下→ドル売り」という経路を反映しただけという見方もあります。そう考えると、ノルウェークローネ以外の対ドル上昇率が似たり寄ったりであるのも頷けます。あくまでドル主体の相場であり、「リスクオフの円買い」はそもそも存在しなかったという評価もあり得ます。
分かりやすい円相場への含意
中東リスクの現状や展望に関しては専門家の分析や見解に任せたいと思いますが、円相場見通しへの含意は比較的分かりやすいものと考えます。基本的には円安相場の支援材料と考えるのが無難に思えます。大前提として、やはり原油価格上昇を通じた影響をどう見るかという議論になるでしょう。
そもそもガザ地区も含めてイスラエル自体が産油国として存在感を持つわけではありませんが、第一報を受けた金融市場は「本件を契機として主要な中東産油国を巻き込んで大きな戦禍に至る」という極端なシナリオを前提に価格形成を進めました。実際、本当にそのような展開に至る可能性はゼロではないでしょうし、そうなれば過去の中東戦争後のように主要な中東産油国が石油禁輸に踏み切るという事態もあり得ます。今回に関し「そうなる」とも「そうならない」とも筆者は言えませんが、本件以前から原油価格の再上昇は話題になっていたことは思い出したいものです。本件が高止まりしていた原油価格を上げることはあっても下げることは無いというのが客観的評価ではないでしょうか。例えば、サウジアラビアによる原油の自主減産について、それが緩和される可能性も小さくなったという見方は早速出ています。そうした理解の下、内外経済環境への影響を検討する必要があります。
まず、海外に目をやれば、本件を背景に原油価格が下落のきっかけを失ったと考えた場合、累次の利上げにもかかわらず未だインフレ終息が視野に入らない欧米中央銀行にとっては新しいインフレリスクを抱えたことになります。ドル/円相場にとっては、欧米利上げ路線長期化が内外金利差に基づく円売り・ドル買いの追い風となるという理解に落ち着きやすいでしょう。一時的にはボラティリティが高まる中、キャリー取引がやりづらいムードも漂うでしょうが、過去を見ても、中東リスクが金融市場に長期間、影響を持つことは実は稀です。もちろん「今回は違う」という専門的な見地もあるかもしれませんが、時間の経過とともに「欧米のインフレ懸念」という王道の材料に関心が戻る公算が大きいと筆者はみています。
一方、国内に目をやれば、原油価格の高止まりは当然、輸入の押し上げを通じて貿易赤字の再拡大に直結します。日本の輸入の4分の1は鉱物性燃料であり、原油価格+1%の上昇は鉱物性燃料を約+7%押し上げ、輸入金額全体を約+2%押し上げます。既に原油価格は今年のボトム(3月)から+30%以上上昇しており、その間に円安も進んでいることを踏まえれば、輸入はラグを伴って増加してくるはずです。「貿易収支に象徴される円の需給環境は2022年よりも2023年は改善。2024年はさらに改善する」という見立てが円高反転の必要条件だと筆者も考えていましたが、この点が輸入面から元々揺らいでおり、本件でさらに揺らいだというのが現状ではないかと思います。
現時点で入手可能な情報を踏まえる限り、今回の一件は金利・需給の両面から円安シナリオの延命に繋がるものだと筆者は感じます。
リスクは枚挙に暇がない
もちろん、リスクを考えれば枚挙に暇がありません。ハマス奇襲攻撃の背後にイラン支援があったという真偽不明の情報もあり、これが米国の対イラン制裁の強化に繋がれば、原油価格を筆頭に小さくない影響が残るという見方はあります。また、米国がイスラエル支援のために軍事支援を分散させれば、ロシア・ウクライナ戦争の局面が一気にロシアに傾くという懸念もあります。それ自体もまた、欧州地域を中心として地政学リスクが増す話になります。その際、天然ガス価格が騰勢を強め、ユーロ圏が甚大なダメージを被るという見方も可能でしょう。
突き詰めれば無数の可能性が分岐しており、メインシナリオ策定においてはある程度の割り切りも必要になります。現状、円相場にとって、上昇を促すような材料や挙動が見られるわけではなく、円安の潮流が本件によって転換を迎えると考えるのは尚早に思えます。