その責任のとり方で、ええの?
「大変ご迷惑をおかけしました。私が責任者として一刻も早く、問題の収拾をはかり、原因を究明して、再発を防止します。それが私の責務です」
そういうトップの責任のとり方が増えたが、それで、ええの?
1 事態を収拾することが私の責任
社会からは、「それって、どうなんや」という声が吹き出るが
当該会社のなかでは
「不透明で、先が読めない複雑な時代だから、今までどおりでいいのじゃない」
「まあ…いろいろあるし、辞めなくていいんじゃない」
とおさめようとする、そういう責任のとり方を許すという風潮がある
失敗したら消えるのが
責任のとり方
再起は他で図る
それが
これまでの世の常だったが
そうではなくなったようだ
近年、企業の不祥事にあたり、辞めずに
「問題を解決するのが経営者である私の責任だ」
と言うようになった
こうもいえる
不祥事のとき責任者本人が
後始末をするということは
どうなのだろう
最近、その傾向が増え
それを許す風潮がある
有耶無耶にする構造
組織の不祥事にトップが
「この事態を収拾することが私の責任である」
というが
そうじゃない
あなたがトップにいて、そうなった
あなたはそれを管理できなかった
だからあなたは去って
次の人が
「なにがおこったのか」
「なぜそうなったのか」
を総括するのが筋なのに
不祥事の責任者が変わらなければ
有耶無耶(うやむや)になる
日本は昔からそうだった
という人もいるが
そうではない
「腹を切る」
「自腹を切る」
という言葉が現在に残る
責任の取り方を意味し
文字通り「切腹」に由来する
封建時代の道徳観念で
不始末がおこった場合は
自らの責任を判断し
自らおよび家の名誉を保つ
という社会的意味から
「腹を切る」
という責任のとり方をした
実際はたいしたことでなくても
という江戸時代の文献は
多く残っている
それが変わった
企業の不始末に対して
責任をとるべき人が
責任をとらなくなった
そういう責任のとり方を許すと
後々同じようにしようとする
トップがあらわれる
そのトップに対して
厳しく糾弾すると
いつか自分も厳しく責められる
だから「しょうがない」と許す
それで許されたら
「いや…助かったよ、君たちのときもそうするからな」
このように、順繰りに責任回避してきた
2.先送り構造の限界
にもかかわらず
そんな先送りを繰り返してきたのに
自分の番になって、責められたとする
「前だって、そうだったろ」
「前の人の時は責められなかったのに
なぜ私の時だけこうするんだよ」
といった前例主義がとびだす
そんなことが許されるのは
世界では多くない
その前例主義が
現在の若者たちには理解できない
若者たちには、そうなる「未来」は
必ずしも保証されていない
約束されていない
だから若者にとって
「責任の先送り」は許せない
そのような組織文化は
バブル経済崩壊とともに
昭和が終わって
崩壊したはずだった
しかしバブル期に
実務を担ってきた人たちが
それぞれ会社・組織の幹部になって
バブル組織文化は順送りされて
平成30年を乗り越え
令和6年も生き残った
世の中では
昭和時代のような
やり方や行動様式は
とうの昔に
通用しなくなっているのに
ほとんど変えなかった
会社風土は変わらなかった
そしてコロナ禍を契機に
混沌期に入った
それまでの制度・仕組み・やり方が
ひとつひとつリセットされていく
日本社会・会社・組織のなかで
バブルを知らない世代が過半数を超え
36歳以下は昭和を知らない世代となった
「同じずっと会社に勤めつづける」
などという就業観が変わろうとする現在
「辞めない責任のとり方はおかしい」
「前からそうした…そんなの知るか」
しかしギリギリと厳しく責任を追及すると
日本では組織が成り立たなくなると
バブル前の世代から反対意見が出てくるが
それって、本当?
世界はそれで成り立っているが
なぜ日本だけが成り立たない
というのか?
3 市場・時流を見極め、見限り見切り、「次」に進む
それが変わりだしている
年功序列時代は
上にとって“居心地”がよかった
その“年功序列社会”が
大きく崩れていこうとしている
上の者が下の者を
「見込み見定め見極め見限り見切る」
だけではなく
下の者から上の者を
「見込み見定め見極め見限り見切る」
ようになった
視線を浴びせ
場合によれば
上の者が下の者に
見切られる時代ともなろうとしているが
まだまだ日本では
人材もそう、事業もそう
見限り見切らない
なぜ「見限り見切り」ができないのか?
それは人間関係が過度に機能的であり
人間関係が恩情主義になっているから
“お前と、昔、いっしょに仕事したよな。
よく飲みにいったよな…”
気持ち悪いくらい
粘着質な情を絡めてくる
「見定め見極め見限り見切る」
ことを“残忍だ”“非情”だと思う
そんなことをいっているうちに
組織そのものが沈んでいく
沈んでいく人を助けるためには
生き残る人がいなければならないが
見限り見切らないので
みんな一緒に沈んでしまう
本来、沈没しかけている船のなかで
“私はいいよ。
私のことは見限ってくれていいから
お前たちの思う通りやれよ”
という人はなかなか出てこない
そうでなく
“どうして私だけワリをくうの?
私だけ責任とらないといけないの?”
みんな、いっしょじゃないか
などといっているうちに
結局みんな沈んでいく
それが見える人は
さっさと去っていく
今まで
見込み見定め見極め見限り見切るのは
社会的に認められた権威とか
年輩者とか、年長者
といった人たちにしか
許されなかったが
彼らが見限り見切らないうちに
時代は大きく変わろうとしている
古いもの
意味がなくなったものを
若い人が見限り見切りはじめだした
これまで日本は見極め見切りが
できなかったかといえば
古い人が威張りすぎてきたから
若い人に任せばいいのに
若い人に任せようとしない
古い人が古い感覚のまま
かつての成功方程式のまま
実権を握りつづけ
新しい人に席を譲らない
先着者優位で
後から来た人を排除する
見切らないから
時間を無駄にする
生産性が低くなるのは当然
ゆったりとした時代速度の頃ならば
まだ通用したが
これだけ早い時代速度の現在
時間の無駄遣いは致命傷
“見限ったら見切ったら、大変なことになる”
見切られないとか
“わが社はこの商品で大きくなったのだから
絶対にやめられない”
というが
見限り見切っても
必ず次のものがでてくる
伝統工芸だからとか
この技術・技能、このやり方は
わが社にとって大切だと
過度に評価したりしているけど
無くなって困るものは無くならない
これは真理である
無くなったものを
ノスタルジックに懐かしがることは
あるかもしれないが
無くなって困るものは無くならない
しかし逆は必ずしも真ではない
必要なものが必ずあらわれるか
どうかはわからない
なぜかというと
それが必要であることに
気がつかないことがあるから
無くなっていくものを
守ろうとしている
守る必要はないものまで
守ろうとしている
そんな時間は
現代日本には残されていない
そんなことよりも
市場・時流を見極め
見限り見切り
「次」に進まなければならない