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ツイッターはSNSなのか、それともメディアなのか問題

佐々木俊尚

ツイッター社を買収したイーロン・マスクが、さまざまなコンテンツやサービスなどを売買できる決済機能をツイッターに導入する方針を明らかにしています。

SNSにあらゆる生活関連サービスや決済を紐づける方向は「スーパーアプリ」と呼ばれ、中国のテンセントが手がけるWeChatがこれで成功したのは有名な話です。しかし現実にこれを実現させるのはけっこう難しいようで、他の国ではどこも成功していません。日本でもLINEがスーパーアプリを目指していましたが、道半ばといったところ。

マスクはツイッターをプラットフォームに引き戻そうとしている

このスーパーアプリの方向をイーロン・マスクが打ちだしているということは、マスクはツイッターを巨大なプラットフォームとして再構築したいと考えているということでしょう。いまのツイッターが抱えている課題は、まさにこの「プラットフォームになれるのか否か」というところにあります。

歴史を振り返ってみましょう。ツイッターは2007年にローンチし、2009年ごろから日本でも普及期に入りました。あのころは「ランチなう」なんて投稿が流行るぐらいで、日常のささやかなつぶやきを交換するだけの場所でした。まさしく人間関係の「SNS」だったのです。

しかしRT(リツイート)という恐ろしく伝播能力の高い機能を実装したことで、ツイッターは徐々にニュースや情報を流通する場としてのパワーを身につけていくようになります。これはツイッターを社会に浸透させましたが、ツイッターにとっては諸刃の剣でもありました。フェイクニュースや過度な政治的中傷があふれかえるようにもなったからです。

日本でも2010年代に原発事故と第二次安倍政権という二つの政治的なイシューがちょうど重なったことで、ツイッターがイデオロギーの応酬の場になってしまったのは記憶に新しいところです。

2010年代にツイッターはSNSからメディアになった

このようにツイッターが人間関係のプラットフォームから、メディア的な場所へと移行していってしまった。これはツイッター社が望んだ変化というわけではなく、否が応でもそうなってしまったということなのでしょう。とはいえツイッター社としては、どのようにして運営を中立に保つかという新たな課題を迫られることになりました。

この記事に、その悩ましい問題がわかりやすく解説してあります。

ツイッターをめぐる今回の騒動で、ツイッターのニュース表示などに人の手による介入があったことが批判されていますが、この議論は本質ではないとわたしは捉えています。そもそも人の介入があることは以前から説明されていますし(その説明が不十分だったことが誤解を招く原因にはなっていると思いますが)、介入しなければ「メディアとしてのツイッター」はメディアとしての公正な役割を果たせなくなってしまう。このまとめが端的にその問題を指摘しています。

これに「ツイッターに公正さなんて誰も求めてない。ツイッターは単なるSNSだ」と反論する人も多いのですが、実際には大量の政治ツイートが拡散され、日本でもアメリカでもツイッターでの世論が政治に影響を与えるまでになっている。この状況に対して「公正など無視して自由にやれば良い」というのはあまりにも政治にナイーブな意見だと言えるでしょう。

問題は「人の介入」ではなく「公正さ」の実現である

考えなければならないのは、人の手が入ろうがアルゴリズムで解決しようが、どのようにして「ツイッター空間が政治的な公正さを担保するのか」ということだと思います。

かつてフェイスブックでもこれが問題になったことがありました。2016年のことです。テック系メディアのギズモードや英国のガーディアンなどが、「フェイスブックのニュースの選択はアルゴリズムではなく、人間の編集者の手によるものと示す文書が発覚」「保守系のメディアの記事はなるべく表示しないよう操作していた」と相次いで報じたのです。



今回の騒動は、この6年前の話とまったく同工異曲です。人間の手が入れば、どうしてもイデオロギー的な傾斜が加わってしまう。かといってアルゴリズムだけでは公正さの問題は解決しない。フェイスブックの事件では根本的な問題は解決しないままでした。


「何が公正なのか」「公正さを保つというのはそもそも可能なのか」という議論を、あらためておこなう好機と捉えるべきでしょう。

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