肩書きのことを考えていたら、ラーメンズのコントに辿りついた。
アカウント・エグゼクティブ
社会人になって、はじめて会社から与えられた名刺にはそう書いてあった。
実家に帰った際、父にその名刺を見せたら「新入社員にエグゼクティブって名乗らせるのはどうなんだ」と言われたことを覚えている。
それはさておき、その後の肩書き遍歴はこうだ。
アカウント・プランナー
ストラテジック・プランナー
プロモーション・プランナー
デジタル・プランナー
コミュニケーション・プランナー
アクティベーション・プランナー
ビジネス・デザイナー ←イマココ
部署や階級が変わるごとに、名乗れる肩書きが変わる。
そんな肩書きの候補から選んで名刺をつくる。
僕の会社では、そういう仕組みだ。
「何もなし、ってのはダメなんですか?」
僕は一度だけ聞いたことがある。
信用されるためにつける肩書きが、こうもコロコロ変わる人は信用されない気がする。
だったら何もつけない方がいい。
名前だけにしておけば、選ぶ手間も省けるだろう。
そう考えた。
ただ、その提案が受け入れられることはなく、
「せっかく名乗れるんだから何かつけなよ!」
名刺を担当している総務課のお姉さんにそう諭され、しぶしぶ何かを選んだ。
新年1発目の日経COMEMOのテーマは #肩書きを複数持つ必要はありますか
ビジネスパーソンの在り方が変化する今、肩書きについて今一度考えてみたら、ラーメンズのコントに辿りついた。
今日はそんな話。
■肩書きを持つと、本質と向き合えなくなる
僕は普段、この日経COMEMOで恋愛や家族の多様性について書いている。
その中で出会ったリレーションシップ・アナーキーという概念が気に入って、肩書きのように使うこともある。
リレーションシップ・アナーキーとは、人間関係において「友達」「恋人」「家族」といった関係性の名前を放棄すること。
詳しくはこちらのnoteを読んでもらいたい。
僕が関係性の名前を放棄しようと思った理由と、前述のように肩書きを放棄しようと思った理由は似ている。
それが領域を規程するからだ。
例えば「デジタル・プランナー」という肩書きの頃のこと。
当時、デジタルに力を入れる部署にいたため、部員は皆「デジタル・○○」という肩書きを使っていた。今で言えば「DXプランナー」のようなものだろう。
しかし実際の現場でクライアントの課題に向き合った結果、解決策として「リアルイベントがいいだろう」と考える時もある。
そんな時は「デジタル・プランナーなのに、リアルな企画を持って来ちゃいました」と笑い話のような前置きをつけていた。
邪魔だった。
肩書きが邪魔だった。
肩書きがあると、領域が規程され、本質と向き合えなくなる。
そんな気がした。
リレーションシップ・アナーキーもそうだ。
2人の関係性に「恋人」という名前を使うと、恋人の領域でしか動けなくなる。その結果「恋人なのに○○してくれない」とか「恋人なのに○○するの?」と、本質とは違う議論が発生してしまう。
僕にとって肩書きは、本質を見えにくくするものだ。
■肩書きが増えると、本質に近づく
いきなり肩書きを否定してしまったが、お題は
#肩書きを複数持つ必要はありますか
だった。
これに関しても「肩書き≒関係性の名前」と置き換えてみよう。
すると、 #関係性の名前を複数持つ必要がありますか ということになる。
先ほど「恋人」という関係性の名前を持つと領域が規定され、本質が見えにくくなる、という話をした。じゃあそれが複数だったどうだろう。
「恋人」じゃなくて「恋人であり、家族」や「恋人であり、友達」だったらどうだろう。
その方がしっくりくる関係は多い。
実際のところ
「恋人であり、同居人であり、家族であり、友達」
なんて関係は多いはずだし、その方が本質には近いと思う。
関係性の名前を複数持てば、本質に近づく。
肩書きもそうかもしれない。
例えば広告業界では「クリエーティブ・ディレクター」なる肩書きがある。
これはクリエーティブ領域の責任者のようなポジションで「本質的なことをズバっと言う人」みたいなイメージがある。
しかし、いきなりクリエーティブ・ディレクターになることはできない。
広告業界で言えば、コピーライター、デザイナー、CMプランナー、ストラテジックプランナーなど、どこかの領域から入ってたどり着くポジションだ。
なのでクリエーティブ・ディレクターは全ての専門領域を抑えていなくてはならない。全ての専門領域がある程度わかるから、本質的なディレクションができる。
そう言った意味で肩書きが増えること(つまり複数の領域を持つこと)は、本質に近づくことかもしれない。
■肩書きを求めると、無用途人間になる
ここまで、肩書き自体は否定しつつ、それを複数持つことは肯定してみた。
それでもやはり最後に、肩書きを求める行為には警鐘をならしておきたい。
例えば「クリエーティブ・ディレクターになりたい」という願望。
関係性で言えば「恋人になりたい」といった類の願望だ。
理由はシンプルで、主語が自分ではないから。
肩書きも関係性の名前も、相手が主語の概念。
相手がいないと成立しない概念だ。
例えば「(あなたにとっての)クリエーティブ・ディレクターの小島です」と名刺を差し出し、「(あなたにとっての)恋人になりたい」と告白をする。
それは単に用途の提示に過ぎない。
肩書きとはつまり、相手にとって「自分をこう使ってください」と用途を提示しているだけだ。
そこには自分がない。
だから用途がなくなったら、相手がいなくなったら、自分もなくなってしまう。
肩書きがなくなったら、関係性の名前がなくなったら、自分もなくなってしまう。
それを求めるのは、とても危険な願望だ。
誰かの用途であることを求め続けた人間が行き着く先は、結局「無用途人間」だ
という、ラーメンズのコント(3分44秒)がこちら。
誰かのための自分ではなく、自分のための自分を持つこと。
それが2021年を生きるキーワードかもしれない。