「ウソ」からはじまるプレイフルアプローチ
とある有名なファシリテーターが、「私はいつも場が終わるまでにウソを10個つくようにしている」と言っていました。
その人は、バレるかバレないか、ギリギリのところでウソをつき、最後に参加者の方に、どの発言がウソだったか、何個ウソをついていたかを質問します。参加者がいくつか「あれはウソだったんじゃないか」と指摘すると、ファシリテーターは「そのウソはほんとうにウソと言えるのか」を問いかけます。そうすると、「でたらめだろう」という意見に対して、「いや、意外とそうとも言えない」という意見が現れ、議論が白熱していきます。
その熱が頂点に達した時、参加者がみな大切なことに気づく瞬間が生み出されるのです。だからそのファシリテーターはその気づきの伏線として、ウソをかならず10個つくようにしているというのです。
というはなし自体はウソなのですが、今日はこの「ウソ」を起点として、笑い、ユーモア、遊びの気分を醸成するプロセスと、組織開発における「プレイフルアプローチ」のあり方について考えてみたいと思います。
真面目なペインフルと、遊びのプレイフル
「笑い」はケアであり、アイデアの創発を促す「遊びの気分」を生み出してくれるモノであると考えています。
『笑いの哲学』(木村覚・著)のなかでは「遊びの反対は真面目」であると書かれています。真面目とは「ものごとをある側面から見て、別の側面から見ないこと」としたうえで、遊びとは「物事に対する通常の見方や価値から一旦距離をとり、別の見方や価値をそこに見出してみること」としています。
私たちは、組織のなかで、日々発生するさまざまな問題や不確実性にまつわるストレスに対処する必要があります。そんな日々を「真面目」に、痛みに耐えながら推進していくことで、問題解決が生まれる場合もあれば、そうでない場合もあり、いずれにせよ疲弊していってしまいます。
そんなとき、笑いやユーモアの感覚が必要です。これは、今ここで起きている組織の問題を扱う「ペインフルアプローチ」に対して、実験的で日常を異化しながら考え、遊びの気分でアイデアを創発し推進する「プレイフルアプローチ」に関連します。
「ウソの感覚」とは何か
この笑いやユーモアの感覚を醸成するために重要なことの一つは「ウソの感覚」です。
劇作家の別役実は著書『別役実のコントの教室』のなかで、「笑いをつくりだす感覚を養う」ために、「うそをつく」ことの有効性を説いています。たとえば、全部でたらめな物語を思いつくままに語ったり書いたりしてみる。そうすると柔軟になり、笑いのリズムというものが素直に取れるようになっていくといいます。
また、演出家で最近は俳優もやっているという萩原朔美は「幻想は、イメージの筋トレだ」「フィクションは現実を超える力がある」と語ります。
たとえば、先日わが家で、息子が風邪をひき、腹痛に苦しんでいました。「お腹が痛い痛い」というので、私は真面目に「大丈夫・・・?痛いねぇ、かわいそうに・・・」と話しかけていました。しかし一向に痛みがおさまりません。なので、ここでひとつ、嘘に賭けてみることにしました。
「痛みの原因は、お腹に針が刺さっているからかもしれない。ただし、その針は目に見えない。でもパパはすごい集中力で針に触ることができるから、今からその針を触って本数を確かめてみる」といい、息子のお腹に触れました。
「どうやら25本、針が刺さっているようだ」といい、なまはげのごとき形相で、震えながら見えない針を抜く動作を25回くりかえしました。息子がちょっとずつ笑いはじめ、その様子に娘も参加してきて一緒に針を抜いてゴミ箱に捨ててくれました。
その後も少しお腹を痛がっていましたが、痛み止めが効いてきて、すやすやと眠ってくれました。効果があったかどうかはわかりませんが、遊びの気分が感染し、気が紛れた面はあったのでしょう。
「第一次感覚」と「第二次感覚」
別役実は、「うそをつく感覚から、笑いを作り出す感覚」において、「第一次感覚」と「第二次感覚」という言葉を用いています。
たとえば、時限爆弾が登場するコントをつくるとします。このとき、爆弾を見て怖いとか逃げようとかいう反応を考えるのが第一次感覚です。いわば常識的な真面目な反応です。腹痛でもだえる子どもに対して「痛いねえ、かわいそうに」というのも第一次感覚です。
それに対して、時限爆弾があるにもかかわらず、お友達同士が和やかにお話をしている。「もう帰るの?」「いや、もうしばらくいるけどこの時限爆弾が爆発するまでには帰るわよ」という会話が行われる。こうしたズレた状況を生み出すのが第二次感覚です。
この第二次感覚を養えと別役実は言うのです。
組織開発においても、「問題が解決した未来の視点から、未来を思い出しながら語る」という「未来語りのダイアローグ」というワークを取り入れている事例があります。
この方法は、たとえば、10年後の2034年に今抱えている経営課題を全て乗り越えた先の未来の視点から、2025~2034年に起きた出来事を思い出すのです。いわば、まだ起きてない未来のことを語るので、ずっと「ウソ」をつきつづけなければなりません。
さらに、これは1人で行うのではなく、誰かがついた「ウソ」に乗っからないと、対話が転がらないのです。「ほら、たしか2027年だったと思うんだけど、高木部長が骨折して入院した時があったでしょう」と語ったとしたら、「あのときに、課長だった山下さんが大活躍したんですよね。あれはすごいいい機会だったよね、災い転じて。」といった具合に、ウソにウソを塗り重ねていくのです。
こうしていくうちに「確かにそんな未来があってもいいのかもしれない」と思える真実感覚がつかめたとき、ビジョンが構想され、また新たな一歩を踏み出せる活力が湧いてくるのです。
ウソをつくときの注意点
別役は、この第二次感覚にも注意点をあげています。
調子が悪い時は、うそであることをばらしたくなるというのです。あるいは自暴自棄的になったり、悪ふざけに走ったり、説明過剰になってしまうそうです。こうした「第二次感覚の調子がわるい」という点に気づけるかどうかも、重要なポイントかもしれません。
ぼくが息子のお腹にささった見えない針を抜いた時は、調子がよかったのです。ウソからウソが生まれ「ああなるほどこういうものがありえる」という真実感覚が醸成された結果、ある種のケアが生まれました。
しかし、調子が悪い時もあります。自分がやっていて楽しくなく、恥ずかしくなり、自暴自棄になっている感覚があるときは、遊びの気分は感染せず、子どもが嫌がったり、自分自身が落ち込んだりすることもあります。
第二次感覚を働かせて、遊びの気分を醸成するときは、自分を面白がらせるようにふんわりと行うのが肝なのでしょう。大喜利が強い芸人さんたちは、解答を出しながら、自分がすでに笑ってしまっていることがよくあります。自分を面白がらせながら、他人を笑いに誘えたとき、良き場が生まれているといえそうです。
現実に対峙する「ユーモア」の感覚
こうしたうその感覚は、「ユーモア」を機能させるうえでも重要です。
うそをつくと、普通は怒られます。うそによる笑いが受け入れられるためには、「笑い/遊びを許容する気分」が必要です。このように語るのは「笑いの哲学」を書いた木村覚です。
先にも書いたように、「遊びの反対が真面目である」とするならば、真面目な場でウソは許されず、笑いも生まれません。しかし、一つのやり方に固執してうまくいかず問題が起こり続けている状況を前に、さらに真面目に考え続けた先には消耗しかない場合もあります。別の視点から、別のやり方を模索するときに、問題から一歩距離を取り、遊びの気分の中で考えてみる。これがプレイフルアプローチです。
木村覚は、このように語ります。
変えられないように見える現実に接触しながらも、別の可能性をさがし、提案していく。遊びの気分に包まれた場は、想像力が潰えずむしろ湧き立ってくる。これがユーモアが感染した場の状態なのでしょう。
遊びの気分を許容し合うコンビあるいはチーム
遊びの反対に真面目とします。真面目一辺倒なアプローチで解消できない問題を、ウソや笑いが許容される「遊びの気分/第二次感覚」により、現実の問題から距離をとり、柔軟でクリエイティブな解決策を見出すことができるはずです。
しかしながら、このウソ/第二次感覚を働かせるためには、恥ずかしさや楽しくない感覚にも敏感にならなければなりません。失敗を恐れず、真剣に遊ぶ。それでいて肩の力を抜き、自分自身を楽しませながら、他人を小さな笑いに誘う。そのような実践にはすべることへの恐れ、恥ずかしさがつきまといます。
このとき、ウソに乗っかってくれる二人目の存在が必要です。遊びの気分/第二次感覚を場に醸成するために、率先してウソをついてみるとき、誰かが必ずそのウソに乗っかってくれると信じられていれば、勇気が湧いてきます。そうして、複数人の遊びの会話のなかで、ウソがウソを生み、飛躍し、飛躍のなかに真実が見えてくる。
ウソ・笑い・遊び・ユーモアにおける「二人目」論については、またあらためてどこかで考えたいと思っています。
参考文献:
『笑いの哲学』木村覚・著
『別役実のコントの教室:不条理な笑いへのレッスン』別役実・著
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