"No Together, No Lonely."たとえ一人でも僕たちは孤独じゃない
世界中で感染者が急増している新型コロナウイルスだが、欧米諸国に比べ感染者数が異常に少ない日本に対して、「あれはおかしい」という声が海外からあがっているそうです。
日本語でも記事になっていました。
海外の専門家によれば、日本の検査数が少ないことを上げ、この感染者数の少なさは「偽の安心感」だとし、日本では今後あっという間に感染は拡大すると見ているとのこと。
いやいや、むしろ不用意な検査をしなかったからこそ、医療崩壊も招かず、死者がこれだけ少ないままだったとみるべきでしょう。もちろん、日本のコロナ感染がこれで収束に向かうなどとは断言できません。100年前のスペイン風邪でも、日本に一番被害をもたらしたのは第二派ですから。
とはいえ、見るべきは感染者数ではなく死者数であることは間違いないわけで、中国に次いで世界で二番目に感染したにも関わらず、これだけの死者数で抑えられているということは、日本の医療関係者の方々に感謝すべきことだと思います。
しかし、日本の感染が少ない要因はそれだけではないでしょう。欧米人と比べて、挨拶としてのキスやハグや握手がないという違いもありますが、それだけでもないでしょう。
日本は、一人暮らし世帯数約1840万世帯(2015年国勢調査)で、中国・アメリカに次いで世界3位の単身世帯国家です。人口は世界11位なのに、単身世帯数は3位なんです。ちなみに、単身世帯率36.4%は、世帯類型で1位です。
その上、一人を楽しめる率は、20-50代男女未既婚計で67%に達します(僕が主宰するソロもんラボ2018年調査より)。
さらに、大きいのは、コンビニ・自販機をはじめとする食飲料インフラが充実していたという部分で、これはひとえに、コロナによる外出自粛の中でも頑張った物流系の人達のおかけです。
日本には、こんなスーパーソロカルチャーがあります。
これは非常に重要な視点です。
たとえば災害時などいざという時、人々が集まって助け合う。それは必要なことだし、有効なことでしょう。が、こうしたコロナのような感染症の場合は、集まる=感染拡大につながります。
日本人は集団主義だと勘違いしている人がいますが、それは集団になれば得の場合は集団になるし、集団になれば損だと思えばならないというしなやかさがあります。
あえて集まらなくても、個々人は物理的には一人であっても、一人で部屋で過ごしていたとしても、自分は決して孤立しないという「ひとりひとりの中にあるソロで生きる力」が日本の強みだと思います。
幼児期を思い返してみて下さい。お母さんが常に傍にいるという安心感があるから、幼児は安心して遊んでいられます。お母さんの姿がちょっとでも見えなくなると泣きわめいていたはずです。
が、少し長じると、お母さんが買い物などで家からいなくなっても、お母さんは自分を決して見捨てたりはしない、そのうち帰ってくるという安心感によって、一人遊びして泣かなくなるようになります。これが幼児期における精神的自立の第一歩で、大抵の人はこれを習得しているはずです。これは、精神分析医で小児科医のD.W.ウィニコット氏が提唱した「一人でいられる能力(capacity to be alone)」というものです(これについては拙著「超ソロ社会」の中で詳しく説明しています)。
たとえ状態としては一人であったとしても、誰かと共有できる何かがあると感じれば、人は孤立さを感じないということです。
この、一人でいても不安にならない状態が発展すると、物理的に一人でいても、心理的に孤立感を感じなくなる。すなわち「ソロで生きる力」へと発展する。物理的に「誰もいない」より、心理的に「誰もいない」と感じられる方が人間は寂しいのです。周りに大勢の友達に囲まれていても寂しくて仕方がないという若者も多いでしょう。それは、自分の外側に人を配置しているだけでは寂しさを払拭できないからです。
言い換えると「誰かと一緒にいるから寂しくないのではない。誰かと一緒にいないと寂しいと感じる心こそが孤独」なのです。
「孤独は悪」と言いたがる系の人間の論説に対して、僕はことごとく反論していますが、一人でいることを孤独だと考える時点で、その人は永久に孤独から抜け出せないでしょう。
No Together, No Lonely.
コロナがこれ以上拡散せず、収束に向かうことを心から希望しますが、世界の中で日本がこれだけの少ない死者で終えられたとしたならば、日本のソロ文化、ソロ活経済は大きく見直されることになると考えます。
孤独についての考え方についてはこちらの記事もお読みください。