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未来の社会実装とワクチン

自分と関係ない世界

2020年から始まったCOVID-19パンデミックに対する、国や地方行政や民間組織や家庭など、粒度の異なるさまざまな組織や集団で、さまざまな対策が講じられてきました。いずれもが、未来を方向づける活動です。もちろん、数々の対策案の中から、それぞれの価値基準に応じて選ばれ、実施されてきました。価値基準そのものへの賛成反対は、それぞれあると思います。また、方向づける未来の距離感も、直近の時間軸での場当たり的なものから、一年先、二年先、さらにその先を見据えたものまで、さまざまな時間軸があったかと思います。

そうしたいずれの未来も、自分とは関係のないところで、自分とは関係のない人たちが、自分とは関係のない営みの中でやっていることだ。そんな風に思ってしまうことがあるかもしれません。自分の目の前にある、今日と明日の生活とは無関係な、どこか別の世界で行われていること。

過剰適応

都市封鎖や緊急事態宣言などの施策も、ワクチン研究開発も、その接種の計画と運用も、各種支援体制にしても。それが、うまくいっているのか、失敗続きなのかについても、文句をいいながらも、その状況を受け入れるしかない。きっと、元通りの生活を、誰かが取り戻してくれる。だから、今は我慢の時なんだ。そんな風に、他人事のように感じてしまい、今の環境に耐えることを続けてしまう。これは、もしかすると、過剰適応なのかもしれません。

本当は、適応できないはずの状況に、過剰に適応してしまう。また、適応することが、生きる力を持っていることと同義のように思ってしまう。「茹でガエル」とは、よく言われることばです。徐々に茹でられたカエルは、命の危険のある温度まで高まっていることに気づけずに、死んでしまう。

使う人が未来をつくる

未来を選ぶのは、使う人だという記事を何度か書きました。

料理は食べる人が主役

例えば、食べた人を健康にする料理があったとします。「毎日の食事を楽しみにし、笑顔で食事することで、心と体が健康になる世界」を実現しようとする人たちがいたとします。多くの研究者や農業生産者の人生が注がれ、多様な基礎研究と栽培手法の改良と弛まぬ努力によって、栄養価の面からも味わいの面からも素晴らしい食材が生み出されたとします。それを、最適な環境で産地から小売、そして食べる人のもとへと流通する仕組みをつくり、実際に運搬してくれる多くの人がいて、手元に届けられたとします。食体験をここち用意ものにしてくれる器がデザイナーと職人技術によって制作され、素晴らしいレシピと調理技術を持つ料理人によってこしらえられた料理が盛り付けられたとします。快適な環境がしつらえられ、匂いだけで食欲がそそられ、それを食べることで、心が癒され、体に必要十分な栄養が供給される。完璧に個別最適化された料理は、食事する人それぞれに必要な栄養バランスが考えられている。健康と食の楽しみを完璧に両立しているものが、そこにあったとします。

しかし、その場に、それを食べる人がいなければ、全ては意味を失います。食べる人がいなければ、作られた料理は冷めていき、時とともにくずれ、いずれは腐敗してしまいます。食材の研究も、栽培も、運搬も、調理も、しつらえも、全てが無意味なものとなります。

社会実装の最後のピース

食べる人がいて、ようやく目指す未来の最後のピースが埋まるのです。社会を本当に変えられるのは、食べる人なのです。食べる人が、未来を現実のものとすることができるのだと思うのです。

ワクチンの予防接種について、さまざまな意見が流れています。判断するための正確な情報と、望ましい未来を見据えた上での判断。ひとりひとりの、その判断が、未来を決定していくのだと思います。


未来を現実のものとするためには、作る人とともに、使う人が本当に大切です。そして、社会実装を現実のものとできるのは、私たちひとりひとりなのだと思うのです。


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