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 私は論文の被引用数は2500件以上ありますので、それなり論文の世界と関わってきた人間です。

 今も、論文を書いています。データ解析に関する基本的なブレークスルーに関する論文を過去9年かけて20回以上も投稿してきました。NatureやScienceなどの一流の論文誌に投稿していますが、採択されない状況が続いてきました。一次審査(エディターの審査)が通らない状況が続いてきたのです。
 ただ、投稿して拒絶されるたびに、中身はさらによくなっているのが希望でした。昨年、約21回目で、なんと一次審査に通りました。その後の専門家の審査でまた落ちましたが、ともかく一つ殻を破れたのは素直にうれしいし、今後のさらなる挑戦への勇気を与えてくれる結果でした。

 日本からの学術論文数が低下しているといいます。論文数は、研究者の層の厚さを示す指標になっているので、それ自身は気をつける必要があります。ただ、論文については、いろいろな見方ができるのも事実です。

 まず論文になるような成果は実は大したことはない場合が多いということです。科学の歴史を見ればすぐにわかりますが、画期的な論文は投稿しても採録されないことの方が多いのです。
 上記の私の非採択になっている論文は、私のこれまでの論文の中でも最もインパクトのある内容です。だから採択されないのです。
 というのも、論文はピアレビューという、その分野の仲間による評価によって採否が決まります。実は、画期的な結果は、分野の常識を超えたり、分野の枠を越える場合が普通なので(だから画期的なわけです)、ピアレビューの査読者は適切な評価ができません。だから通常採録されません。採録されるのは、既に分野が出来ていて、その主流の人たちに仲間と認められるような、その分野でお行儀良く、すこしだけ、既存の内容に新しさを加えたものは通りやすいのです。すなわち、平凡で大した中身はないが、汗を掻いた論文が採択されるわけです。

 従って、論文数は、まさに、その既存の学問分野で、既存の人たちと仲良くしていて、その学問分野の常識を身につけた人かどうかを示しているものです。決して画期的な研究結果かどうかを表しているものではありません。引用数も同様です。もちろん、基礎学問の人材は、国の資産として一定数必要なので、その指標として論文数は意味があります。

 ただ、ここで日本が迷っているのは、社会や産業界が求めているのが、学会という閉じて狭い世界でうまく立ち回った人の数ではないということです。だから、単に論文の数は意味ないのではないかという議論になります。このような議論が、研究予算配分にも影響を与えていると思います。
 本当は、論文のテーマや内容の多様性を評価すべきと思います。既存分野をはみ出すテーマに果敢に挑戦する論文が評価されるようにならなければならないわけです。
 ピアレビューがそのようになっていない仕組みを壊す必要があります。ピアレビューを通った論文が検証された価値のある論文であるかの如く扱っている論調がありますが、こういう勘違いを修正する必要があります。


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