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自由を求める人間は、もうすでに不安に押しつぶされてる病人かもしれない

「マスクをしない自由」を訴える米国人の記事から、「自由」というものについて考えてみたいと思います。前もって断っておきますが、コロナ禍では「マスクをするべきだ」というマスク警察みたいなことをいうつもりはありません。コロナ云々の話ではなく、あくまで「自由」について論じます。

「アメリカは自由の国」「自由と言えばアメリカ」と思い描く人も多いと思います。同時に、「集団よりも個人を重んじる」と。対極的に、「自由や個人の意思を我慢して、周りにあわせる同調圧力・集団主義的な日本人」というイメージも強い。


世界価値観調査において、こんなおもしろい質問がありました。

「自由か安全か」どちらか二拓で選択しないといけないとしたらどっち?

予想通り、日本は男女とも自由より安全を重視しています。一方、アメリカ人は男女とも圧倒的に自由を重視します。全世界で圧倒的に「自由重視国家」でした。

この結果は想像通りだったと思うのですが、他の西洋諸国もアメリカのように自由を重視すると思っていませんか?

実は、世界の中で「自由重視」はむしろマイノリティです。男女とも「自由」を選択するのは、アメリカ・ニュージーランド・セルビアの3か国だけで、他の大部分の国々は、日本と同様男女とも「安全」を選択しています。これは意外だったのではないでしょうか。

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今コロナ禍だから…というわけではありません。この調査は2017-2020年にかけて行われたもので、大部分の国での調査はコロナ以前に終わっています。

ちなみに、「男は安全で女は自由」という国は1つもない。黄色線で示しましたが、男女比較では全ての国で女の方が自由より安全を重視しています。つまり、男女差でいえば、世界どの国も同じということです。

とはいえ、「アメリカは自由を重視する国」であることはこの調査でも明らかで、「マスクをしない自由」を声高に叫ぶのも当然だろうと考えてしまいますね。

たとえば、ある国の性質を表したこんな文章があります。

個性よりも仲間意識を大切にし、個人の自己表現より集団の調和を重んじ、高望みせず、悪くない給料とまずまずの年金、そして自分とよく似た人達の住む地域社会にそこそこの家を建てられる程度の仕事を与えてくれる組織に忠実。

これを読むと「ああ、典型的な日本人だね」という感想を持つと思います。しかし、これは、1956年当時のアメリカの労働者の姿を描写したものです(出典は、W.H.ホワイト著「組織のなかの人間 オーガニゼーション・マン」
より)。

企業の家族主義は日本の専売特許だと思っている人多いですが、むしろ戦後の日本は米国で当たり前だったこの家族的温情主義を取り入れたのとも言えるのです。日本では農民中心の江戸時代までは夫婦共働きが当たり前だったし、都市部の町人においても「銘々稼ぎ」といって、自分の財産はたとえ配偶者であっても勝手に処分したりはできなかった。よく時代劇で借金を作った旦那が妻の着物を勝手に質に入れるシーンがあったりしますが、あれ許されない。罪になったんですよ。

明治以降も庶民は男女共に働いていたし、戦時中は内地に残る女性たちがメインの労働者となっていた。ドラマ「奥様は魔女」に代表される典型的な専業主婦像というものは、むしろアメリカから輸入されたものでもあったのです。

1960年代になっても、ジョンソン大統領は「偉大な社会」をキャッチフレーズとして、医療や貧困対策を重視していました。この頃のアメリカ人は、現代とは違い、明らかに「自由より安心・安全」を選択していたと言えるのです。

アメリカのそれ軌道修正が顕著になったのは、80年代以降レーガン政権以降です。大幅な所得減税が行われ、生活保護などの公的扶助は抑制され、低所得者層の負担の大きい社会保障制度が強化されていくことになります。家族的温情主義だった企業は経営効率主義に変わり、大量レイオフ時代が到来します。事実、そこから所得格差が大きく開いていきます。

つまり、国も企業ももはや家族ではない。「自分たちの面倒は、自分達の家族だけで完結しろ」という通告に等しく、それは社会の安全を国民の手から剥奪したようなものです。

多少の制約や不自由があっても、アメリカ人たちが甘んじて受けていたのは、社会的な安心・安全のお墨付きがあったからです。それがないなら個人が我慢することは何もない。自由こそ正義だ、という方向に舵を切るのは当然です。

米国人は、本人達ですら「自分達は集団からは自由であり、決して集団に従属してはいない」と思っていますが、仮に永続的な(と思わせる)安心が提供された場合、米国人であろうと自由を手放すのです。集団に迎合するメリットが何もないなら、個人の判断で動くだけです。何かあっても結局「自己責任」と言われてしまうのですから。

そうした歴史的経緯を見ると、アメリカ人が自由を重視するのは、国民性の問題というよりも、現在の社会環境の問題ではないかと考えます。言い方を変えると、アメリカには今「安心が足りない」のです。

さて、これは決して対岸の火事ではありません。まさに1980年代アメリカに起きた、社会的な安心の崩壊と自由と引き換えの自己責任化の波は日本の今の姿そのものです。

今日もこういうニュースがありましたが、トヨタは言ってみれば「大きな政府」ならぬ「大きな企業」そのものでした。ここが成果主義という名の下の合理主義経営に進む動きは、まさに1980年代家族的温情主義から経営効率主義への転換をしたアメリカと同じ道です。このまま進んだ先にあるのは、今のアメリカそのものの姿になるんじゃないかと思いますけどね。だからといって、年功序列を維持しろという論を言っているわけじゃありません。維持しろといわれても、環境がそれを許さないならできませんから。


ちなみに、国家が安心・安全を国民から剥奪する時に必ず唱えるのは、「家族や地域のコミュニティの人のつながりと道徳の復権」です。一種のまやかしです。国家は安心を提供しないと明言せずに、「安心というものはそもそも家族によって作られるものでしょ?家族を大事にしましょう」と論点をすり替えるわけです。そうしたウェッティな感情喚起の裏側で、社会は冷徹に弱者の切り捨てが行われていくのです。日本でも家族主義復古的なことはどなたかが唱えていませんでしたか?

家族が家族しか頼るものがない社会は多分地獄となるでしょう。8050問題にもつながりますが、高齢化した親の介護を中年化した子が面倒みなければいけない状態(子どもなら親の面倒をみるのは当たり前だろうという道徳倫理観でもある)は、必ず悲劇的な最後を迎えます。いくら実の子どもであろうと、介護の素人が務まる話ではないし、介護をするために離職などしようものなら、親子もろとも滅びるしかなくなります。そうした末路の親子殺害事件など数多くあります。

自由の反対は不自由ではありません。安心です。

そして、この自由と安心とは二者択一の話ではなく、バランスを取るべきものです。ことさらに「自由を! 」とか言う人は、もうすでに不安で心が押しつぶされた病人なのかもしれません。ある程度の安心が担保されて生きている人間なら、誰かに対して「自由を! 」なんてわざわざ言ったりする必要があるのでしょうか?そうやって外部に宣言して、外部からもらうもんなんですか?自由って。そういう人が一番自由を信じていない人ではないですか?

デモなどで声高に自由を唱える海外の映像を見ることがありますが、僕にはあれは、「安心を剥奪された恨みと復讐の絶叫」のように思えます。

そうして手に入れた自由によってもたらされるものとは「永遠に続く不安な日常」でしかないのです。

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。