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われわれはどこまで自由を謳歌すべきか

とても難しい事態が続いている。

オリンピックで華やかに、次々とメダルが選手たちの手に渡り笑顔が溢れる一方で、東京では感染拡大が加速し、また全国でも病床が徐々に逼迫状況となり人々の不安が広がっている。

はたしてオリンピックは中止すべきなのか。あるいは政府がより強力な行動制限を課して、経済活動や人々の日常の生活によりいっそうの制約を課すべきなのか。

われわれは矛盾している。

オリンピックをテレビで観戦して、日本人選手が活躍するのを見ることができるのは嬉しい。また、自由に友人や家族と会い、また美味しい酒や食事とともに歓談を楽しみたい。だが、感染拡大が生命や健康を脅かすような不安な状況を、政府にどうにかして欲しいと思う。

もちろん、政府にも、菅義偉首相にも、これらの複雑で矛盾した難問を解決するための「魔法の杖」はない。あるのは、必ず一部の人々から厳しい批判や怒りが生じるような、困難な中での選択である。

政治は、「より小さな悪」の選択である。

そのような難しい問題は、新型コロナウイルスとともに浮上したのではない。人類とともに、永く問われ続けてきたのである。

ここで私は、オリンピック開催の可否や政府のコロナ対策に対する論評を行うのではなく、その背後にある巨大な問題、すなわちわれわれはどこまで自由を謳歌すべきか、という問いを柔軟に考えるためのいくつかのヒントとなるような思考を想起したいと思う。

「より小さな悪」を選択する勇気はあるか

それは、英語では、「レッサー・イービル(the lesser evil)」と呼ばれている。

カナダ出身の著名な政治理論家であり、ハーバード大学教授や、カナダ自由党の党首も務めたマイケル・イグナティエフは、その著書『許される悪はあるのか?』(風行社)の「日本語版への序文」で次のように問う。

本書において私は、必要であるがより小さな悪とより大きな悪とを、つまりは憲法に定められた自由を損なうことになるが、緊急時においては避けることのできない措置と、憲法の仕組みに恒久的なダメージを与える不要な措置とを区別している。デモクラシー諸国は緊急時にあっても権利をけっして譲りわたしてはならないと主張する人々と、共和国が危機に晒された時にはいかなることであれ許されると主張する人々の中間にある立場を、私は追求した。道徳上の絶対主義にも、冷徹な現実主義にも加担しないように努めたのである。

ここでイグナティエフは、「道徳上の絶対主義」と、「冷徹な現実主義」の両者を排している。

まさに、コロナ禍でオリンピックが開催される中で、SNS上ではこの両者が溢れてはいないだろうか。現実政治で実現し得ないような「道徳上の絶対主義」は、われわれをどこにも導いてくれない。また、「冷徹な現実主義」は政治の世界におけるさまざまな可能性を潰えさせてしまう。

「その中間にある立場」、すなわち現実主義的な中道派の政治的立場は、いまや主要国で死に絶えようとしている。政治の二極化は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のなかで擁護したような「中庸」の美徳を壊滅させようとしている。その結果、オリンピック中止を主張する者とその開催を当然と見なす者との間の論争に、あるいは政府批判をする者と政府を擁護する者との間の論争に、いかなる架橋も不可能となっているかのような状況をつくっている。

イグナティエフの、この著書は、イラク戦争が勃発した翌年の2004年に刊行されたものであり、対テロ戦争のなかで政府がどこまで市民の自由を制限するかが問われていたときに書かれたものである。

そのような状況の中で、人々にどこまで自由を認めるべきか。どこまで生命の安全を確保するために政府が市民の自由を制限し、行動を規制するべきか。いわば、同じような問いがそれ以後繰り返されてきたというべきであろう。

民主主義が過剰に溢れる社会において、人々は完全な自由を謳歌することと、完全な安全を政府に保証してもらえることと、両立し得ない両者を同時に求めている。それが得られないと分かったときに失望した人々が、政府に対して激しい攻撃をし、罵るような状況が繰り返されている。

その結果、ますます賢明な若者は政治の世界に入ることを嫌い、自らの経済的な豊かさを追求するために資本主義の論理を実践する選択を行うのかも知れない。その帰結は、政治の劣化であろう。

われわれにとって、「より小さな悪」とは何か。行動制限を緩和して経済活動などを再開することだろうか。あるいは、感染拡大や医療崩壊を防ぐために国民によりいっそうの制限を求めることであろうか。その難問に、われわれ一人一人がよりよい選択肢を考慮せねばならないのだ。

荒れ野となっているサイバー空間

もうひとつ気になるのが、これまできわめて厳しい練習を続けてきて、輝かしいオリンピックの舞台に立っている選手に対して、ネット空間で口汚い誹謗中傷が繰り返されていることである。

その中傷の内容や、そのような書き込みをする理由は色々であろうが、試合の結果に一喜一憂する傷つきやすい選手たちにとって、そのような誹謗中傷は、おそらく想像を遙かに超えて、心を傷つけるものとなるであろう。

たとえば、7月29日には「選手へのSNS中傷相次ぐ」と題する次のような記事が見られた。

東京五輪で快進撃が続く日本勢だが、選手のインターネット交流サイト(SNS)アカウントには、応援や賛辞以外に、一方的に誹謗(ひぼう)中傷する内容も国内外から書き込まれている。過去には中傷が深刻な事態を招いたケースもあり、対策は急務だ。

激しいネットでの攻撃を受けた水谷隼選手は、7月29日に自らのツイッターで、「とある国」から「くたばれ」「消えろ」などと書かれたダイレクトメッセージが相次いでいることを告白して、「俺の心には1ミリもダメージない」「それだけ世界中を熱くさせたのかと思うと嬉しいよ」と投稿した。ファンから心配の声が寄せられ、その後ツイートは削除されたことが、上記の記事では書かれている。

これに対して、五輪組織委員会は声明を出す予定はないと応じている。

はたして、「表現の自由」が許されたネット空間の中で、このような五輪の選手を攻撃するような投稿を、どの程度許容するべきなのか。これもまた、言論の自由の擁護という重要な価値と、人権の否定や名誉の毀損から法的に守るという価値と、二つの重要な要因を比較衡量して判断せねばならない難しい問題である。表現の自由に規制がかかれば、それは激しい批判に帰結するかも知れない。しかし、野放しでそのような誹謗中傷が続くことが最悪の悲劇に帰結することを、われわれは経験したばかりである。

そもそも、サイバー空間とは、開拓時代の西部劇の様相のように、いわば無法者たちが跋扈する荒れ野のイメージで考えるべきであろう。グローバルに繋がっているサイバー空間において、規制をかけることは容易ではない。国境を越えた攻撃から、攻撃元を特定してなんらかの法的措置をとることはきわめて困難か、不可能か、いずれかである。だが、全力で競技に集中したいであろう五輪選手たちが、このような心ない誹謗中傷で摩耗することは好ましいことではない。

J・S・ミルの『自由論』の前提

そのようなことを考えながら、ふと19世紀イギリスを代表する政治思想家、J・S・ミルの『自由論』を本棚から取り出して、開いてみた。現代社会における自由主義の理念の基礎を提供した重要な思想家の一人であり、またそのような自由を擁護する上での前提を丁寧に示した思想家でもある。

その著書でミルは、次のように述べている。

自分の責任でなされるかぎり、という条件はもちろん絶対にはずせない。けっして、行動も意見と同様に自由であるべきだ、とは誰もいえない。むしろ反対に、意見でさえ、発表すれば有害な行為の扇動につながる場合には、自由の特権を失うのだ。

誰よりも自由の価値を強調し、擁護したJ・S・ミルでさえも、自由を行使する際の一定の「条件」や制約の必要を述べている。そしてミルはさらに、次のように論じている。

個人の自由には限度というものがある。つまり、他人に迷惑をかけてはならない。

すなわち、人々が自由であるためには、いかなる不当な攻撃から守られていなければならない。それが守られなければ、人々は自らの思想や行動の自由を奪われかねない。それゆえ、ミルは次のようにも書いている。

正当な理由なしに他人に害を与える行為は、いかなる種類のものであろうとも、周囲のひとびとの不快感によって、さらには周囲のひとびとの積極的な干渉によって、抑制することが許される。もっと重大な場合には、その抑制は絶対に必要である。

ミルによれば、個人の思想や行動の自由が何よりも重要であると同時に、そのような思想や行動の自由が可能となる前提として、正当な理由のない他者を害する行為を抑制する必要を説いている。だとすれば、すでに書いたように、五輪選手が不当なSNSでの攻撃、誹謗中傷によって傷つけられるとすれば、そのいようなSNSの投稿の「個人の自由」には限度があると考えるべきであろう。

それはまた、新型コロナにおいても同様であろう。すなわち、自らが行動する自由が日本国憲法第13条により担保されていると同時に、そのような自由を行使する際には「公共の福祉に反しない限り」という一定の制約の条件が課されているのだ。

だとすれば、スーパースプレッダーのようなかたちで、自らが新型コロナに感染していることを知りながら、たとえば「三密」の公共空間でその感染したウイルスを拡散するような自由はわれわれには与えられていない。そのような人物の「自由」を制限することは、政府に課せられた義務ともいえる。

新しい均衡(バランス)を求めて

私は、国際政治学者として、国家間で一定の均衡が保たれた状態、すなわち「勢力均衡(バランス・オブ・パワー」の意義をかつて『国際秩序』と題する著書の中で論じたことがある。最近感じていることは、そのような国家と国家の均衡だけではなくて、コロナ禍においては人間界と自然界の均衡、そして国内社会においては富裕層と貧困層の間の均衡もまた崩れていることだ。人間界と自然界の均衡の崩壊は、新しい感染症の発生や拡大につながり、また富裕層と貧困層との間の格差の拡大は民主主義の崩壊につながるかもしれない。そのような事態を避けなければならない。

同じように、国内社会において、自由と規律との均衡(バランス)もまた重要だと考えるようになった。いや、前から考えていたのかも知れない。私は、大学のゼミで長年、新しく入ったゼミ生たちに一冊目の課題図書として、池田潔『自由と規律』(岩波新書)を読んでいただいてきた。この本は、慶應義塾大学で英文学を教えていた著者が、若き日のイギリスのパブリック・スクール時代の教育を想起して綴った著作である。そこで著者は、イギリスの学校教育において、自由というものがかなりの程度与えられながらも、そこには重要な前提があるという。

すべてこれ等のことは自由の前提である規律に外ならない。自由と放縦の区別は誰でも説くところであるが、結局この二者を区別するものは、これを裏付けする規律があるかないかによるところは明らかである。社会に出て大らかな自由を享有する以前に、彼等は、まず規律を身につける訓練を与えられるのである。

著者によれば、規律のない自由は、放縦である。

いまのわれわれの社会に溢れているのは、そのような放縦かもしれない。いわば、規律が失われた状態で、ネット空間には誹謗中傷が溢れる。また感染拡大を予防するために必要な、規律を求める言説が批判される。

それらのことは、ミルがいうところの「他人に迷惑をかけてはいけない」という前提を覆すことになり、また池田のいう「放縦」に帰結することになるのではないか。

いわば、コロナ禍でわれわれは、「自由」と「規律」との双方が失われるようなことがあってはならない。イグナティエフのいうところの「より小さな悪」として、われわれはコロナ禍においてこれまで当然のこととして享受してきた自由に一定程度の制約が課されることを受け入れ、また一定程度規律というものを強めていくことを許容するべきであろう。

しかしそれだけでは、コロナの感染拡大は止まらない。いわば、それは自由の代償である。それはは、自由主義的な社会を求め、その喜びを享受するための対価ともいえる。われわれは、あらゆる要望を実現することが望めない現実の社会の中で生活している以上、ある程度の自由の制約と、ある程度の規律の必要、そしてさらには自由を得ることによる一定程度の感染拡大という現実の直視が求められている。それこそが、われわれが選択すべき「より小さな悪」であり、それが適切なかたちで日本国民によって選択されるならば、いずれわれわれは感染拡大が、感染抑制とその終息を迎える日にたどり着けるであろう。




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