見出し画像

「アメリカのスエズ」の到来?

「スエズ」という言葉は、イギリス外交の歴史の中で特別な重みを持っている。

「スエズ」とは、イギリスの衰退、そしてイギリスの世界大国としての地位からの没落の契機として参照されることが多い。はたして同様に、「カブール」という言葉、そしてタリバーンの攻勢によりそこから撤退する米軍の姿が、アメリカの衰退と結びつけて記憶されることになるのだろうか。

だとすれば、アフガニスタンからの米軍の撤退は、「アメリカのスエズ」となるのだろう。

世界大国の終焉

ここで言及している「スエズ」とは、1956年のスエズ危機と、その直後に始まったスエズ戦争、さらには1967年のイギリス軍のスエズ以東からの撤退を指して用いられる用語である。それらを転機としてイギリスは衰退し、帝国は解体して、世界政治での影響力を大きく失っていった。

その後、1971年にイギリス政府はEC(欧州共同体)、後のEU(欧州連合)に加盟申請をした。1973年からイギリスは、それまでとは異なるナショナル・アイデンティティを育んできたのだ。

いったい、スエズ危機で何が起きたのか?

1956年のスエズ危機とは、帝国主義の終焉、そしてヨーロッパの衰退が進行していくうえでの、世界史的な転換点となる。


スエズとは、現在のエジプト国内に位置する、地中海と紅海とを結ぶスエズ運河のことである。1869年に開通し、イギリスとフランスの資本によって運河が完成した。それ以降、英仏両国がその運河を保有し、それを守るためにイギリスはスエズ運河近くの軍事基地にイギリス軍を常駐させ、運河の安定的な航行を見守ってきた。

他方でそれは、エジプトからすれば国土の中心にイギリスの帝国主義的な権益が存在することを意味し、イギリス植民地主義の象徴ともみなされていた。通航料収入による経済的利権として、そして七つの海を結びつける戦略的な要衝として、第二次世界大戦後もスエズ運河の支配を維持したいイギリスに対して、エジプトはイギリス軍と、その影響力の排除を求めていた。

1952年、アラブ・ナショナリズムに基づく自由将校団の軍人たちの軍事クーデターによって、国王ファード2世を退位させ、エジプトの権力を奪取した。革命後のエジプト政府は、何よりもスエズ運河からイギリスおよびフランスの影響力を排除することを希求した。エジプトの軍人であり、軍事クーデターを実現した中心人物の一人、ナセルは、1954年に権力闘争に勝って自ら首相となり、さらには56年に大統領となった。その後に、アラブ・ナショナリズムに基づいた外交を展開して、かつての宗主国であるイギリスの影響力のこの地域からの排除が大きな外交目標となった。

ナショナリズムが勃興し、旧宗主国のイギリスに対して敵対的姿勢を示すな革命政権と、イギリス政府はどうしたら良好な関係を構築できるのか。激しく、憎しみに満ちた感情的な言葉を吐くナショナリストの政治指導者と、冷静な外交交渉は可能だろうか。

外交経験豊かな保守党政治家のアンソニー・イーデン外相は、1954年にこの革命政権との間で合意を実現して、1956年までにスエズ運河周辺の軍事基地からイギリス軍を撤退させる約束をした。アラブ・ナショナリズムを先導する政治指導者ナセルは、これをイギリス帝国主義に対する自らの勝利であると宣伝した。そもそもナセルは、イーデンと結んだ外交的合意を誠実に履行するつもりはなかった。この経緯については、『外交による平和 ーアンソニー・イーデンと二十世紀の国際政治』(有斐閣)のなかで、詳しく論じている。


軍事力撤退がもたらす不安定性

交渉相手を信じて平和を希求し、合意によって影響力を残し安定を維持しようとする。それがイーデン外相が試みたことであった。しかし、そのような試みがいかに脆いかということは、イーデンはよく知っていたはずだ。というのも、1920年代にドイツ政府が結んだ国際的合意が、その後にあまりにも脆く、崩れていったからだ。その背景として、パワー・バランスの変化があった。

軍事力が撤退することの重みを、われわれは深く理解しなければならないのだ。

1925年のロカルノ条約でフランス政府はドイツ政府と合意をして、1930年までに独仏国境地帯のラインラントから占領軍を撤兵させる約束をした。そしてフランスはそれを実行した。ところが、フランス軍が撤兵した1930年以降、ドイツのフランスに対する姿勢に変化が生じる。それはさらに、その後にドイツがそれまでの国際的合意を破って軍事力を増強するとともに、よりいっそう顕著となっていった。

ドイツ国民は次第に、軍事力を増強するとともに、そしてパワー・バランスが自らに有利になるとともに、さらには国境地帯において相手の兵力が後退するとともに、よりいっそう自信を持つようになる。そしてフランスへと強硬な態度を示すようになる。1933年にヒトラー政権が成立する前から、すでにそのような兆候が見られていた。

軍事力を撤退させて、軍事バランスに変化が生じることが、平和が崩れ落ちる結果に帰結することがある。兵力を持続的に駐留させておくことにはコストとリスクが伴う。だからといって、それを撤退させることによって軍事バランス崩壊させて不安定性をもたらしてはならない。そこに、対外軍事関与の難しさがある。

軍事力を撤退させた帰結としてのその不安定性が、戦争に帰結する可能性が多きということわれわれは留意すべきである。フランス軍撤退後のラインラント、日本軍が撤退後の朝鮮半島とインドシナ半島、イギリス軍が撤退後のパレスチナやエジプトで、その後に戦争が勃発した。海外に駐留する軍事力を撤退させることは、財政負担の軽減となり、また多くの場合に国民の要望に応えることになるだろう。そのような国内政治的な考慮が、軍事戦略的な考慮を犠牲にするときに、われわれは予期せぬ混乱や紛争に直面することになるかもしれない。

1956年にイギリス軍が撤退した後に、ナセルが指導する革命エジプト政権はスエズ運河を国有化し、経済的な利益を得ることを求めるとともに、国内におけるアラブ・ナショナリズムの高まる声に応えた。それに対して、自らの影響力と権益を守ろうとしたイギリスが、フランス、さらにはイスラエルとともにエジプトに対する軍事力行使を行った。スエズ戦争の勃発である。このときのイギリスの首相は、1954年にイギリス軍のエジプトからの撤退に関する合意を外務大臣としてまとめた、アンソニー・イーデンであった。イーデン首相は、自らがナセルと結んだ合意が損なわれ、裏切られたことに激怒したのである。

ところが、国際世論は、帝国主義的な軍事力行使を行うイギリスに、きわめて批判的であった。また大統領選挙を控えるアメリカでも、イギリスの時代錯誤な軍事力行使に対して、非難囂々であった。イギリスの主張は、国際社会には受け入れられなかった。軍事力行使は、悪なのである。

イギリスは国際世論の非難と、ソ連やアメリカを中心とする国際社会からの圧力の下で、エジプトから軍事力を撤退させるという屈辱的な決断をせざるを得なくなる。イギリス軍のエジプトからの撤退は、イギリス帝国の黄昏を克明に印象づけた。その後、1957年1月に、アメリカのアイゼンハワー大統領が、イギリスに替わってアメリカこそがこの地域で責任ある役割を担うと宣言する。これが、いわゆる、アイゼンハワー・ドクトリンである。中東における覇権が、これを契機に、イギリスからアメリカへと移っていった。

そして、1957年1月に首相を辞任することになったアンソニー・イーデンに代わって、老練な保守党政治家、ハロルド・マクミランが後任となった。外交史家のヘンリー・キッシンジャーは、「マクミランは、イギリスがすでに世界大国ではないという手痛い現実にはっきりと直面する最初のイギリスの首相であった」と、的確に描写している。

いわば、イギリス軍の撤退によって生じた「力の真空」、超大国であり、自由世界の盟主となったアメリカが埋めることによって、この地域で指導的な役割を担う意向を示したのだ。その後のアメリカの中東への軍事的関与の重要な起源となる。

このようにして「スエズ」とは、帝国としてのイギリスが世界大国の地位を失っていく象徴として記憶されていった。

イギリス外交史が専門の橋口豊龍谷大学教授は、「この敗北は、イーデンを退陣させただけではなく、イギリスの『世界大国』としての自画像を大きく揺さぶり、後を受けたマクミランに第二次世界大戦後のイギリス外交の再編を促す契機となった」と論じている。

アメリカもまた同様に、「アメリカのスエズ」ともいえるカブールからの撤退以後、自らの自画像を大きく揺さぶられ、アメリカ外交の再編が促されるかもしれない。


軍事バランスを維持したまま撤退する

はたして、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退は、イギリス軍のスエズからの撤退と同じような意味で、世界大国の黄昏を象徴するものとなるだろうか。あるいは、依然としてアメリカの国力は圧倒的であって、引き続き、世界で指導的な役割を担うのであろうか。

泥沼となったアフガニスタンから米軍を撤退することによって、かつて歴史家のポール・ケネディが『大国の興亡』のなかで描いたような「帝国の過剰拡張(imperial overstretch)」と称する過剰な負担から、むしろアメリカは解放される契機となり、衰退を回避できるのだろうか。

さまざまな解釈、そして予測が可能であろう。ここでは、歴史の中に今回のアフガニスタンからの米軍撤退を位置づけることで、従来とは異なる視座を提供しようと試みた。

最後に、アメリカ軍がアフガニスタンから撤退した、その歴史的な意味をもう少し深く掘り下げて考えてみたい。

アメリカが本格的に中東において関与をはじめるようになるのが、すでに述べたようにスエズ戦争であった。第二次中東戦争とも呼ばれるスエズ戦争は、中東における覇権国の地位がイギリスからアメリカへと移行する転換点となった。また、1967年にスエズ以東からのイギリス軍の撤退を決定したことは、この地域においてアメリカが圧倒的な影響力を確立していく前提となっていく。

スエズ以東からのイギリス軍の撤退の歴史から、いくつかのことを学ぶことができる。

まず、「力の真空」が生じれば、そこでさまざまな勢力が、自らの影響力を拡大しようと新しい動きを見せるようになるであろう。スエズ戦争後の中東においては、イギリス軍の撤退を転換点として、その後はアメリカ、ソ連、イスラエル、アラブ諸国など、さまざまな勢力がこの地域での影響力を拡大しようと試みた。

同じように、アフガニスタンから米軍が撤退すれば、その「力の真空」に対して、タリバーン、パキスタン、「イスラム国(IS-K)」、中国、ロシアなど、さまざまな勢力がそこにおける影響力拡大に動くかも知れない。そこに新しい力学が生まれ、新しい対立が生まれる。アメリカ軍の撤退は、自動的にアフガニスタンの平和をもたらすわけではない。そこで、新しい複数の対立軸が増幅されることになるのかもしれない。

だとすれば、アメリカ軍が撤退すること自体が問題だったのではなく、この地域におけるさまざまな複雑な対立軸、そして戦略バランスを動揺させ、崩壊させることなく兵力を撤退させることができなかったことが問題なのであろう。

パワー・バランスは、必ずしも実際の軍事力の規模や、軍事力の駐留のみによって成立するわけではない。脅威の認識や、抑止の機能といった、心理的な要素が大きな意味を持つ。したがってバイデン大統領が繰り返し、国内世論向けに米軍のアフガンスタンからの撤退を宣伝したことは、不必要にタリバンに対してカブールへの侵攻への誘因を与えたのではないだろうか。

1950年1月にディーン・アチソン国務長官は、日本、琉球、台湾、フィリピンというような島嶼連鎖をアメリカが防衛する意志を示す一方で、朝鮮半島を防衛ラインに含めることをしなかった。このことが北朝鮮の指導者、金日成が南進を開始して、韓国へと軍事侵攻を行う誘因を与えたと指摘されることが多い。また、前年の1949年6月までに米軍が完全に韓国から撤退したことが、軍事バランスの変化と、「力の真空」をもたらした。やはりここでも、軍事的な撤退が「力の真空」をもたらし、地域情勢の不安定化をもたらした。

軍事的撤退や、軍事的駐留の規模縮小が、その地域を不安定化させる可能性、そしてそこで戦争が勃発する可能性を、われわれは十分に考慮する必要がある。単独行動主義的な軍縮や、軍事的な撤退は、それがどれだけ平和的な意図に基づいていたとしても、歴史上繰り返し、意図せぬ戦争をもたらしてきたのである。

軍事バランスといっても、それは複合的であり、多面的である。アフガニスタン国内の軍事バランス、そして南アジアにおけるパキスタン、インド、アフガニスタンなどの諸国のパワー・バランス、さらにはユーラシア大陸全体での中国、ロシア、アメリカなどの大国のパワー・バランスと、異なるレベルの軍事バランスが連動していることが、情勢をより複雑化している。

おそらく、アフガニスタンからの米軍の撤退が、ただちに「アメリカのスエズ」になることはないであろう。イギリスがスエズ以東から軍事的プレゼンスを削減するのに、10年以上の年月を費やした。現在のアメリカが、当時のイギリスのような深刻な経済的危機、財政的な危機に陥っているとはいえない。

おそらくこれからアメリカは、世界規模での兵力配置の包括的なレビューを行うのであろう。そして、現在の実在する脅威に対処するために、必要な新しい戦略を構築するのであろう。また、アメリカの対外軍事関与は、植民地主義に基づくものではなく、むしろ平和構築や人道的な目的である場合が多い。だとすれば、1960年代後半のイギリス軍のスエズ以東からの撤退と、現在のアメリカ軍のアジアからの撤退を同列に論じることはできない。

だが、アフガニスタン、さらには南アジアや、さらにはユーラシア大陸で、これを契機として戦略バランスが大きく動揺することは確実である。アメリカも、中国も、ロシアも、それに呼応するかたちでこれから長期的な国家戦略を再検討する必要に迫られるであろうことになるのではないか。だとすれば、日本もまたそれを傍観するのではなく、主体的かつ戦略的に、これらの戦略バランスの同様に対して、必要な長期的な対応をしていく準備はじめねばなるまい。

#日経COMEMO #NIKKEI


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?