なぜ「承認欲求」は(日本のSNSで)批判されるのか? ちょっと社会学的な考察
「承認欲求」という言葉、ネットではネガティブ文脈で使われている。「承認欲求の塊!」「承認欲求がすごい!」「承認欲求丸出し!」などなど。
でも、ちょっと疑問もってもいいかもよ?
という話を、ちょっと社会学目線で書いてみる。
11月後半の事例をあげると、兵庫県知事選のPR手法について折田楓代表noteが、多様な視点からの注目をおおいに集めた(←穏当な表現)
その余波は拡がっており、、
火元となったnoteに、「承認欲求の末路!」的な批判も目立つ。
しかし、欲求とは本来は自然現象であって、そこに善悪はないはずだ。
なぜ承認欲求だけが、ネガティブイメージで語られるのか?
マズロー先生も認める「承認欲求」
心理学的には、承認欲求も人間の基本ニーズの一つだ。マズローの欲求5段階説でも、下から3つめに「社会性」、その上に「承認」、とある。(※ツッコミが予想される概念なので最後にコメントしておくが)
つまりは、人間とは社会的動物なのである。
マズローの1つめは「生理的欲求」だが、食欲や睡眠欲を否定するやつはいない。ただし、授業中にお弁当を食べてはいけないように、「コントロールすべき場面でコントロールできない」と怒られるのが本能だ。動物的本能も社会的に意味づけされている。
そしてマズローが階段の真ん中に「社会性」「承認」と続けたのは、それが人類の生存に寄与してきた重要本能であるからだ。
野原を走り回って、新しい果物の樹を発見し、持ち帰って「すごいでしょー!」と自慢し、「いいね!」と言われる。それをみた人たちが、自分も褒められたい、と川を泳いで魚や貝をつかまえて自慢して「いいね!」を集める。こうして人類文明は発展してきた。その最新形態がSNSだ。
つまり、集団にとって有益な行動をして、集団にアピールし、承認されることで、その行動は集団内で強化される。集団全体にメリットをもたらす。その起点が「承認欲求」だ。
「準拠集団」における承認欲求
現代社会では、この「集団」は物理的な「所属集団」から、価値観を共有する「準拠集団」へと変化している。SNS空間におけるコミュニティ的なもの=界隈、とくにフィルターバブル内部では、典型的な準拠集団といえる。
(界隈、とは現代マーケティングを象徴する概念だと思う)
ある界隈で褒められる行動が、異なる価値観を持つ界隈ではディスられるのは、普通にあることだ。SNSで「バズる」とは、自分のホーム界隈を超えて、自分が理解できていない界隈へ侵入する、ということ。価値観の衝突を伴うのも当然だ。
この状態で、「承認欲求が強い」、という批判も発生する。
この状態を、どうとらえるべきか?
ディスられる側にとっては、自分の界隈の狭さ、他界隈への価値観の理解力不足を、認識できる学習機会ととらえておけばよい。知的に成長したのである!
ディスる側は、危機感もったほうがいい(かもしれない)。「自身の準拠集団の価値観を絶対視する姿勢」がその前提にあるから。自分が客観的に見えていない、ということだから。
だから、もしも承認欲求を「痛い」と感じたときには、そこにはどのような価値観の対立が生じているのか、自分と相手がそれぞれどのような準拠集団に属しているのか、その価値観の差異はなにか、考えてみたい。
「恥の文化」の日本
もう1つ指摘すると、日本の伝統的文化には「謙虚で控えめな自己表現を美徳とする価値観」ある。この伝統価値観では、承認を求めること自体が「恥ずべきこと」として捉えられやすい。特に女性に対してこの圧力は強いだろう。
一方で、SNSという場では、若い女性の積極的な発信(とくに顔・体・服など見せながらの自己表現を伴うもの)ほど、注目を集めやすい。
つまり、日本の伝統的な「謙虚の文化」「女性は控えめに」という価値観と、SNSの特性は、相性が悪い。(だから燃える=SNS運営会社にとっては美味しい)
英語圏でも、承認欲求への批判はあるようだが、ターゲットが違う感じだ。"Attention seeking"や"like-hunting"などのワードがあるようだが、これらはING動詞だ。つまり批判は、外形的に観察可能な、具体的な行動に向けられている。
日本で批判ターゲットになる「欲求が強い」とは、内面の心理状態だ。これは、「心」や「内面」を重視する日本文化の特徴を反映している。
ついでに:マズローの現代的解釈
マズローについては、要するに、わかりやすい説明だと思う。ただ、現代社会ではゴールのある階段ではなくて、いつまでもゴールなく循環し続けるサイクル回路(3重表現)のほうが近いと思う、と2017年の著書から僕は書いていて、たまに評価いただいてます ↓
2017年の著書は、24年に電子化されてるので、あわせて読みましょう。
(トップ画像は考える猫さん)