見出し画像

はじめてのクィア・スタディーズ

『WKW4K』が好調だ。
そう、8月19日よりシネマート新宿、グランドシネマサンシャイン池袋、立川シネマシティほかにて全国順次公開となったウォン・カーウァイ監督作5本の4Kレストア上映のことだ。

上映が始まって以来、各地の劇場で大盛況となっている。

我々下北沢のミニシアター「K2」でも9月30日から上映している。
何を隠そう『WKW4K』という企画を耳にした瞬間、これは絶対に「K2」でも上映したい、上映して多くの人に届けたいと願った上映企画ではあったので、今「K2」で上映出来ていることが嬉しくて仕方ないのだが、嬉しいのは来場する観客層だ。『WKW4K』が始まった週は『恋する惑星』にかなり若い観客が押し寄せて連日満席となった。昔リアルタイムで見ていた観客層に再び劇場に足をお運びいただくこともとてもうれしく、またそれを期待しているものではあるが、きっと今回初めてウォン・カーウァイ監督作を見るであろう観客が大挙するのは、映画と人との出会いを生み出すためにあるような映画館をやっていて本当に嬉しい瞬間だ。

一種の運命的というか感慨深いなと思うのは、ウォン・カーウァイの『天使の涙』や『恋する惑星』が当時のミニシアターブームを牽引した作品であり、「シネマライズ」を筆頭としたミニシアターに行くことという行動をひとつのファッションアイテムに押し上げるという一時代を作ったこと。それが今、コロナ禍で苦境に立つミニシアターにまた人を集め、ミニシアターで映画を見るという行為の豊かさや面白さ、そしておしゃれさも復刻していることだ。

何故、今、ウォン・カーウァイ監督作が20年ものときを超えて熱狂的に盛り上がっているのか、何が若い年代をも惹きつけているのか。それについて映画館の視点から、ビジネスパーソンとしてズバッと解説を・・・とちょっとだけ考えたが、正直わからない。。全く色褪せない撮影監督:クリストファー・ドイルによる映像美への憧憬(そしてそのSNSとの親和性)であったりもするだろうし、今回の『WKW4K』のポスタービジュアルの素晴らしさ(!)だったりも考えられる。が、それだけではないのは明らかであろう。これが分かるようになった暁には、きっと『K2』は連日満席になる作品が続々と上映されることだろう(笑)。しかし一方で何故いまウォン・カーウァイ監督作を見る意義があるのかということは言えるとも思った。

一つは、社会情勢。
自分が初めてウォン・カーウァイ作品を見たのは学生のときだったと思うが、当時リアルタイムで上映していた『2046』を見てから、その虜となって逆走するように遡って過去作を見始めたが、見れば見るほどその地層を見ているようなそのレイヤーの重なりに衝撃を受けた。どの作品もルックとしては大凡、御洒落な映像で映し出される様々な人と人との恋愛模様であると言ってよいだろう。恋愛が人生に齎す輝きや苦悩や焦燥感、追憶といった様々な感情がたくさん詰まっていることに胸がいっぱいになる。もちろんそれ単独で本当に素晴らしい映画ではあるものの、『2046』って何・・?あれ、、『花様年華』に出てくる部屋番号って2046号だよね・・・?『2046』って結局2046号室での時間への執着と追憶の話ってことは・・・。と考えたくなるノードが沢山でてくる映画作品群でもある。言ってしまえば、”香港という場所に設定された、限りの在る時間”、その時間への様々な恋愛にも近いような感情を表現している映画でもあるのである。『2046』は2046号でもあり、2046年でもあるのである。こんなにも痛切に美しく、人に人が持つ感情を、その土地が持つ時間であったり歴史であったり未来もしくは政治への言及とをリンクさせることができる映画は無いのではないか、そして映画とはそういうことができる表現媒体なのかと雷を打たれた作品であった。ウォン・カーウァイに出会ってから、香港という場所の政治・社会情勢に興味を強くもつ様になったが、当時自分が考えていたような2046年までの残り時間をカウントダウンする日々が待っていたのではなく、雨傘運動が起こったりと、今アジアの社会情勢は急激に変化が起こってきている。だからこそ、改めて『WKW4K』を現在地から見ることに意味があると感じている。ちなみに、同じような意識のもと、今年の夏には『K2』では映画『Blue Island 憂鬱之島』という映画も上映していた。こちらはドキュメンタリー作品だが、香港について考える上でもとてもおすすめの作品なので、配信などが始まったら是非見ていただきたい。

そしてもう一つは映画における「多様性」(もしくは普遍性)なのではないかと思う。やはり今『WKW4K』を上映することで、ウォン・カーウァイの視点として、20年も前から、今まさに映画に求められている「多様性」の観点があったということに、その先見性や同時代性に驚き称賛する声も聞こえてくる。『ブエノスアイレス』が特にその観点ではフューチャーされている。下記論考も是非ご一読を。

そういった映画の持つ「普遍性」が、現在の「多様性」を重視しようとしている流れとしっかりと合流していることが、多くの観客の心を改めて揺さぶっているのだと思うし、前述の社会情勢だけでなく、このような「映画と多様性」の歴史も振り返るべき作品だと思うからだ。

自分なりの視点から、2つの今見る意義を考えてみたが、このエントリーですこしでも『WKW4K』を今見る意義が伝わると嬉しいし、まだまだ来週以降も続映していくので『WKW4K』を「K2」に是非見に来ていただきたいと思う。

ところで、
”今まさに映画に求められている「多様性」”というところでいうと、特にその震源地となっているのは配信だろう。映画における「多様性」そして「普遍性」について話題が出たので、このテーマについても少し考えてみたい。

スミス教授は長年の研究から「コンテンツ制作者の多様性が増すと、キャストの多様性も向上する」とも指摘する。190カ国の2億世帯にサービスを提供する同社は「性的少数者の社員の採用を拡大し多様な俳優やクリエーターの起用を意識的に実践していく」という。また、映像産業の多様性推進を目的とした基金を設立、今後5年間で1億ドル(約100億円)を関係団体などに投資する。
ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を過剰に求められる時代に多様性をいかに確保し質の高い作品を提供するか。世界展開する同社の挑戦から目が離せない。

このような取り組みは素晴らしいという前提の上で、Netflixなどの配信事業者は製作と興行を一環して自分たちでコントロールできるという立場の上で、意志を持ってその方向性を推し進めている(押しすすめることができる)ので、目に見えやすく伝わりやすい為、(進んでいることは事実である上で)進んでいると見られ、そうすると相対的に映画は遅れていると思われてしまいがちだが、前述の通り、映画の歴史を彩るマスターピースは何十年前からすでにポリティカル・コレクトネスがしっかりしていたり、多様性やクイアに対してしっかりと当初から正しい意識や認識のもと作られて表現されている作品も少なくない。ポリティカル・コレクトネスは本来時代に左右されず、普遍的にそこにあるはずであるはずだし、アートフィルムとして作ろうと真面目に考えれば考える程、普遍的/普遍的価値の追求は求められる事柄であり、それは必然的にポリティカル・コレクトネスな表現やテーマになるはずだから、当然といえば当然だと思う。そういう観点で改めてマスターピースが見直されるのであればとても嬉しいことだと思う。

しかし、一方で記事に「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を過剰に求められる時代に」とあるように、昨今、むしろ本末転倒になっているような事例も最近散見される。それはポリティカル・コレクトネスが広がったという以前よりも真っ当な社会になったことの裏返しとして、ポリティカル・コレクトネスがファッションやトレンドとなってしまっていることもあるような気もする。ピンクウオッシュと揶揄される、マイノリティをテーマに据えたり、フレンドリーに扱っていればもうそれだけで表現としての価値や意義があるだろうという風味の作品も溢れて来ていて、何かまるでポリティカル・コレクトネスであることが映画の質を下げているかのような靄が掛かっているように感じる瞬間すらある。

なんで今、”映画”はポリティカル・コレクトネスが低くアップデートしなくては行けないと言われがちなのか、何故映画そのもののクオリティーを差し置いてもポリティカル・コレクトネスという政治性を(雑な形であっても)全面に立たせた作品が称賛を受けるのか、などなど、本来これまで自分が大切にしていた映画表現におけるポリティカル・コレクトネスが、盛り上がっている現状に逆に自分は違和感を感じることも出てきている。その違和感はなんなのだろうか。そしてきっと同じ様に今考えている人もすくなくないのではないか。このままほっておいて、逆回転が起きてはならない。それにはどうしたら良いのだろうか。

そんな疑問を解き明かすべく、そして改めてちゃんとその歴史を学ぶべく、PODCAST番組「もしくろ」では今回、クィア・シネマ研究者の菅野優香さんをゲストにお迎えし、特集【はじめてのクィア・スタディーズ】として映画とクィアについてお話を伺った。

特集『はじめてのクィア・スタディーズ』

section1「悪名高い!?クィアの定義」

元々は蔑称として使われていた「クィア」を、1980年代から当事者たちが自称として使うものへと変遷してきたという、言葉としての背景、そして、定義が難しいものとして悪名高い(!)というクィアの示す範囲について掘り下げた。菅野さんによると、クィアは、細かく分断されたLGBTをいったん包括するようなアンブレラタームであり、しかしながら同じ同性愛者でもジェンダーが違えば在り方も大きく違う、という、包括と差異の2方向があるもの。だからこそ未知や曖昧さ、矛盾をも考えることができる概念である、というお話に。

section2「原節子「紀子三部作」を”クィアに読む”と…?」

クィアという言葉の背景や示す範囲についてお話を伺ったところで、では、クィア・スタディーズとは具体的にどんな研究分野なのか、という部分を掘り下げていったsection2。そこには、関心あるトピックがあるうえでそれを深く知るためのさまざまなアプローチから最もベストと考えられるものを選び、研究するという「イシュー・ベース」があるということで、伝統的な学問の研究とは逆をいく、その自由度の高さに武田さん&長井さんの知りたい・学びたい度も高まっていきました。さらに菅野さんによる「紀子三部作」のクィア・リーディングでは意外な発見が続出。

section3「トランス女性バッシングにみる社会背景と、性の揺らぎ」

研究分野としての”クィア・スタディーズ”とその”読み方”についてお話を伺った前回から、より現実の方向に視点を移して、最近特にSNSで顕著なトランスジェンダーへのバッシングの背景にあるものをじっくりと掘り下げた。特に、”性別のゆらぎ”という菅野さんの発言から繋がった、長井さんからの、自分の中にある男性的な部分とパートナーの中にある女性的な部分との関係性のお話には、とてもハッとさせられる。

section4「自分なりの切実さを解くヒントとしてのクィア」

自分や周囲、特に若者のジェンダーやセクシャリティの捉え方の変化に触れつつ、映画におけるポリティカル・コレクトネスを考えていった特集最終回。

「なぜ当事者では無い自分がクィアを学びたい/知りたいと思うのか」という疑問から、その欲求の根幹にあるものを探っていくと、非当事者はいないということ、生きるなかで感じるもやもやであったり、自分なりの切実さがそこにはあるんだという気付きが。真摯に学ぶことが互いのフラットな理解につながることを改めて感じた。そして後半では、映画におけるポリティカル・コレクトネスやアファーマティブアクションが消費とならないようにはどうすればいいのか、という問いが、つくり手と観る側のリテラシーの話に発展して…!?

今回の特集は歴史を1から振り返っているので、きっと改めて今、学ぶべきものを学ぶという意味でもとっても良い回になっていると思います。是非お聞きください。

そして最後に・・・
11月3日まで「K2」で『サポート・ザ・ガール』という映画を上映中。この作品は職場でのジェンダーや労働における問題を扱っている作品であり、このエントリーのテーマにも関係性のある作品。こちらもぜひ劇場で御覧いただけるとありがたいです。是非とも。

INTRODUCTION

日常の生活に蔓延する女性蔑視と人種差別に、友情と信念で立ち向かう女性たちを描き出した本作は“マンブルコアのゴッドファーザー”とも名高いアンドリュー・ブジャルスキーがメガホンを執った。SXSWを皮切りに世界中の映画ファンを魅了し、レナ・ダナムは「観る者を掴んで離さない。レジーナ・ホールの演技は、まさにオスカー級」と賛辞を贈ったほど。毎年発表されているオバマ前大統領が発表するフェイバリットにも選出、俳優陣たちの演技は見事ながら、主人公リサを演じたレジーナ・ホールの存在感は群を抜き、ニューヨーク映画批評家協会賞の主演女優賞をはじめ、数々の映画賞を受賞・ノミネートを果たした。そんな俳優たちの確かな演技と、我々の日々の生活でも想起される些細な差別や偏見をあぶり出すアンドリュー・ブジャルスキー監督の手腕が見事に合わさった本作は、まさしく“現代のガールズパワームービー”に呼ぶにふさわしい傑作映画であり、見逃さずにはいられない至極の作品だ。

STORY

スポーツバー、“ダブル・ワミーズ”でマネージャーとして働くリサは、日頃より店のオーナーと対立していた。さらに従業員へのセクハラも対処していたりと、悩み事は絶えない。ある日、従業員のシャイナが引き起こしたトラブルがきっかけで、遂にオーナーからクビを言い渡されるリサ。しかしリサの公私に渡る面倒見の良さから彼女を慕っていた従業員たちは彼女の解雇に反発。スポーツバーが賑わう格闘技の試合がある夜に、彼女たちはストライキを画策するのだが——


頂いたサポートは、積み立てた上で「これは社会をより面白い場所にしそう!」と感じたプロジェクトに理由付きでクラウドファンディングさせて頂くつもりです!