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教育や学びのほんとの「基礎」ってなんだろう?

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと教育のことについて書きたいと思います。


「基礎」からやらなきゃやっぱダメ?

コロナ禍になって家にいる時間が長くなったので、実はちょっとピアノを弾いたりしています。

この歳になるまでピアノって全然弾いたことがなかったですし(小学校のピアニカくらい)、不器用なので両手で別々の動きをすることががもう無理ゲーな感じがしすぎて敬遠していたのですが、仕事や文章を書くのとはとちがう脳の部分を使う感じがして結構楽しいです。

まさに「四十の手習い」でやっているのですが、練習をどうしているか、というと、YouTubeの動画を探して漁ってやっています。便利な時代になったもので、鍵盤が打鍵順に点灯してそのとおりに練習すればいいものやピアニストの先生がコードを解説しているものとか色々あります。何よりも再生スピードを変えられるので、自分の習熟度に合わせてやれるのがよいです。

一番最初は、家にあった子どもたちのピアノ教室の「教科書」的なのを使ってやっていたのですが、それだとどうしてもつまんなくなって、、、

というのもそうした教材では、「指の使い方」とか「楽譜の読み方」とかからやっぱり順番にやっていくわけです。そうするとなんか弾く楽しさとかを感じられる前にだいぶかかる

ト音記号とか○分音符とか、そういうところから入るとやっぱり「お勉強」的な感じがして、全然楽しくないんですよね…。

YouTubeでは「楽譜が読めなくても弾ける」みたいな動画がたくさんあるので、そういうのをすっとばしてピアノを弾けるようになります。

でも一般的には、楽譜の読み方とかをちゃんと身につけておかないこういう習い方って、「基礎ができていない」とか言われそうな気がします。

そこで改めて「でもそもそも基礎って何…?」と考えたわけです。


音楽における「基礎」とは?

まず僕が考えたのは、「楽譜」って果たしてほんとうに音楽の「基礎」なんだろうか、ということです。

自著『アート思考ドリル』でも少し触れていますが、音楽において「楽譜」を「基礎」と考えて重要視し、その通り弾けるようにする、というのは実はそれほど普遍的な話ではありません。

そもそも音楽にとって楽譜は必須ではありません

しかし実は、もとから音楽に楽譜があったわけではありません。最初にあったのは歌や音楽だけで、それを他の人に伝えたり、覚えておくために、 あとから「楽譜」がつくられ、徐々にルールが整理されて細かくなっていったのです。(自著より引用)

音楽が生まれた時には楽譜はなく、元々は音楽「メモ」程度の「手段」にしかすぎないものでした。西洋以外の音楽では楽譜がないものもたくさんありますし、そうした音楽では「楽譜どおりに演奏する」という考え方や「正しい演奏」という概念自体がありません。

「楽譜」は音楽の原点でも基礎でもありません。なのに、最初に楽譜から入ってしまうために、音楽そのものを楽しめないとしたら本末転倒ではないでしょうか?


音楽に限らず、日本の学校教育においては音楽における「楽譜」のようなタイプの「基礎」教育が多い気がします。国語ではまずカナや漢字を「読み書き」するところから始めますし、算数では足し算、引き算とか単純計算だけをやたらやります。

つまり「ツールや方法の反復練習」がとても多いんですよね。それって果たしてほんとうに学びや学問の「基礎」になっているのでしょうか?

なぜそう思ったかというと、僕はたぶん今回「楽譜の読み方」から入ったら多分つまんなくなってやめてしまっただろうな、と強く思ったのですよね。なにかを学ぶ時、一番最初に「つまんない」と思わせてしまうというのは教育として得策ではないし未来につながらないのではないでしょうか?

まずは楽しむ体験をして、面白いという気持ちや好奇心を育む。それが出発点でそこからさらに深くと思ったらいろいろなツールや方法を覚えていく。まずは「やりたい」という探求の心を育むのがいちばん大事な「基礎」ではないか、と思うのです。

また、やりたいという気持ちを育む前に「楽譜」などの方法論を最初にやってしまうと、手法のルールにロックされて可能性が限定されてしまう、ということもある気がします。茂木健一郎さんとジャズピアニスト山下洋輔さんとの対談にこんな言葉が出てくるのですが、

「音の場合は、次に何の音がくるのかは原理的にわからないのです。つまり音楽は本来、絶対的に自由なんですよ。だって見えないんですから。ところが結局、楽譜を見て弾いてしまっているので、わたしたちは音楽の本当の自由さを、実は味わうことができていないのです」(『脳と即興性 不確実性をいかに楽しむか』)

このように「楽譜」が呪縛となるケースすらある気がします。

また、そもそも「楽譜」は音楽という「消え去るもの」を記録・伝達する機能のために生まれたわけですが、録音も録画もしてそのまま残せる様になった現代において「楽譜」が必須のものと考えるのも時代遅れかもしれません。


学びにおける「基礎」はどうあるべきか?

「基礎」とは「土台」ということです。最初につくるべきものであり、その上に色々と積み上げていく下支えです。

では、学びにおける「基礎」とはどういうものであるべきでしょうか?

僕が今回考えたポイントは以下の3点です。

①まず、面白さを体験すること

まずなによりもそれを楽しむということです。学問でもアートでもスポーツでもまずそれを面白がる。最初に楽しいものとして興味を持てばこそ、将来にわたって可能性が開きます。これがあらゆるものの基礎だと思います。

たとえば「いや、でも国語ならひらがな覚えなきゃ何もできないでしょ」と思うかも知れませんが、果たして本当にそうでしょうか?「文字」もまた音楽における「楽譜」と同じように後から発明された「ツール」ですし、文字がなくとも言葉の面白さやコミュニケーションを楽しむことは可能です。まずは、物語や言葉の面白さを体験し、お互いに話し合うことを楽しむ。文字を練習するよりも前に、そこから始めることもできるでしょう。

僕はほんとうに社会科が嫌いだったのですが、「コテンラジオ」という歴史podcastを聞き最近になってやっと歴史に興味をもてるようになりました。

歴史の面白さを知ることなく受験のためだけに丸暗記したのですが、ただの暗記なので受験が終わるとすべて忘れてしまいました。もし「基礎」の時点でコテンラジオのような授業があり歴史の面白さに出会わせてくれていたら、きっともっと多くを歴史の授業から学べたことでしょう。


②自分らしく工夫を重ねる

2点目に、「基礎」だからこそ「その人らしさの土台」を育むということが大事な気がします。

こちらは以前書いた記事ですが、

世阿弥の稽古論においては「物真似」的なテクニックよりも先に、「二曲」と言われる謡や舞の稽古によって基礎力を鍛えよ、ということが言われています。

しかし、日本のいまの初等教育は、まさに「似す」からはじめ、「時分の花」に満足して「小物にてしつけたらん形木に入詰まり」させてしまうようなところがないでしょうか。
能における「二曲」を教育でおきかえるなら何でしょう。基礎になるインナーマッスルや体幹のような、「物真似」ではないその人の身体からふりしぼられる可能性の根源を鍛え、引き出すこと。自分の頭で考える力や自分なりの仕方で何かをつくり出せるという自信をつけること。

先ほど「ツールや方法の反復練習」について疑義を呈しましたが、反復練習自体がいけないとは考えていません。なぜならほとんどの場合、学びというのは反復によるからです。いけないのは安易に「やり方」を真似ることです。たとえば日本の教育、とくに受験のための学習塾では計算式や公式の意味を考えることなく「この通りにやっていれば点が取れる」というような教え方も多いようです。これは世阿弥が考える「稽古」とは真逆のあり方でしょう。


「小学生のこの時期に、これだけの勉強をするかしないかは今後の人生に大きく影響する」

という時、形だけ真似する「勉強」ではあまり意味がないような気がしてなりません。


しかし一方で、以前ホリエモンが寿司職人について物議を醸していたように「修業は時間の浪費」だからやるだけ無駄と考えるかというと、必ずしもそうは思いません。

おいしい寿司のつくり方は、YouTubeやレシピ動画で公開されている。見たまま数カ月も真似(まね)れば、数十年修業した腕前と変わらないレベルの寿司を握れる。

修行を全くせずショートカットするのも「形だけ」の真似になりかねないからです。もちろんただただ「我慢」して時間だけをかけるのは無意味でしょうが、形だけの真似では(短期的には効率的かもしれませんが)土台が弱い気もします。

反復や稽古において大事なのは「形だけ」の真似でもただ言われたとおり「我慢」することでもなく、楽しみながら繰り返し自分なりの工夫を重ねていくことではないでしょうか。


③「つくる」を広げ、深めるためにツールをプラスする

面白さを体験し、そして自分らしい工夫を重ねる中で、さらにそれを拡張するためにここで初めてツールに触れます。

たとえば国語なら物語の楽しさを知り、自分なりのお話や詩をつくってみた上で、それを記したり読むために文字を習ったり、さらに良くするために「起承転結」などなどの物語のテクニックを身につけていく。その順番のほうが書きたいことが生まれる前にツールや手法を教わるよりも有意義ではないでしょうか。

アートもまずその楽しさを体験し、知識や道具を使わずに自分なりの表現を工夫してみて、その後でアートの知識をつけたり、手法を身につけたりすることで可能性を広げたり深めたりしていく。今週は彫刻刀を使います、とツールから入ったり、とにかく作品名と作者を暗記したりする、というような「ツールや方法的基礎」の教育では、アートを楽しんだり生み出すという「土台」(=本当の基礎)ができない。

「基礎」というのは手法ではなく、楽しい・面白いという体験を未来の源泉としてセットし自分らしさの土台をつくることだと考えれば、

「方法的基礎 → 体験 → 創作」から「体験的基礎→創作→方法」という順番のほうがむしろ良いのではないかという気がします。

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