映画とは、社会の解像度を上げるものである

この度、「COMEMO by NIKKEI」のオピニオンとして、「クリエイティブとお金」などのテーマを手始めにnoteを書いていく事になった。

僕は、現代アートや演劇、音楽、本、映画、そしてリノベーションなどによるまちづくりなどのクリエイティブな活動を応援するクラウドファンディング『MOTION GALLERY』と、ローカルのカフェやゲストハウスなどの様々なスペースをあっという間に”まちの映画館”にすることができる『POPCORN』の2つのプラットフォームを運営している。

ただ、今はプラットフォームの運営だけでなく、新米の映画のプロデューサーとして、はたまた新米の芸術祭キュレーターとして、新しい挑戦に戸惑いながら格闘している毎日を過ごしているので、新しい「映画のつくり方」「芸術祭のつくり方」「本のつくり方」など、プレイヤーとしての日々の失敗や挑戦についても発信していき、一緒に挑戦する仲間も出来たらと思っている。

クラウドファンディングプラットフォーム、MOTIONGALLERYを立ち上げ運営して8年になる。この年月のなかで、どうしてクラウドファンディングをやろうと思ったのか尋ねられることは少なくなかった。まずは自己紹介も兼ねて、今日はその話を改めてしようと思う。

2017年9月。僕が、ナカムラケンタと一緒に、マイクロシアタープラットフォーム『POPCORN』を立ち上げて半年後のこと。
福岡に呼ばれてそれについて話す機会があった。

映画イベントなどを次々と行い福岡の映画文化を盛り上げている、三好さんと森重さんと
初めとは思えない掛け合いとなり、シネフィル同士というだけで急速に連帯感が生まれ、「これが映画のチカラだ!」なんて思いながら打ち上げに。更にディープな映画談義で盛り上がっているとふと、「なんでこんなに僕らは映画が好きなんだろうか。そもそも映画の存在意義って何なんだろうか?」という話に至った。そこで森重さんが発した言葉が僕の心を掴んだ。

「映画とは、社会の解像度を上げるものである」

作り手の視座、思いが反映される「作品」は、ある時は観客(私)の視点に寄り添い、ある時は観客(私)とは相容れない多様な視点の存在を明らかにする。

数多くの映画を観ることで、描いているテーマや、隠されたメッセージを見つけ、自分の考えや知識と照らし合わせる。それは、映画監督や脚本家という他者のまなざしを追体験し、そして自分自身を相対化する作業なのだ。

悩み多き思春期や人生の壁にぶつかった時に、すっと心に入ってきて社会の多様な視点にいざなってくれる。すると表面をなぞるだけでは見えていなかったものが立ち現れる。だから、社会を観る目の解像度があがる。僕は今まで、映画を観ることである種の答えが出たり、自分の周りに理解者や味方が見つからなかった孤独からトンネルを抜けるように這い出たことが幾度となくあった。世界のどこかに、もしくは少なくともその作品の監督は、自分の事を理解してくれている人が生きているという実感には、生きることを選択させるほどの力があるのだ。

映画が社会に必要だと僕が思う理由はそこにあり、それが映画を愛している理由でもあり、MOTIONGALLERYを立ち上げた理由でもある。

社会のマジョリティの論理やお仕着せの道徳感、同調圧力に、違和感を覚えることは生きづらい。けれど、そういう生きづらさを感じている価値観を持つ人こそが多様に存在する事が社会を豊かにする。文化という心のオアシスがもしなければ、荒涼とした市場経済による数の暴力、同調圧力に押しつぶされてしまい、そのときのマジョリティ側に立つ人しか社会に生き残れなくなってしまう。そうではない違う人達が生き残り社会を豊かにする力、それが映画なのだ。

その力を信じて今日もMOTIONGALLERYを運営している。

頂いたサポートは、積み立てた上で「これは社会をより面白い場所にしそう!」と感じたプロジェクトに理由付きでクラウドファンディングさせて頂くつもりです!