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これからの資産と、カレーライス貯金の話。

「今日は雄一郎のためにお集まりいただき、ありがとうございます。雄一郎、ここにいる人たちを大切にしなさい」

父は結婚式の最後に、そうスピーチをした。10年前の話だ。

最初はごく一般的なスピーチだったが、父は最後に、ここにいる人(披露宴の参列者)たちを大切にしなければいけない理由、を付け加えた。

「ここにいる人たちを大切にすれば、お前が困ったとき、1人1万円は貸してくれるだろう。合計すれば、ざっと100万円にはなる。だから、ここにいる人たちを大切にしなさい。」

感動の場面で、父は笑いを取りにきた。

父の狙い通り緊張感で張り詰めていた会場は、笑いに包まれた。
(不謹慎だ、と新婦側は思っていたかもしれない)

数年後、僕は結局離婚してしまったが、その時の父の教えは何となく守っている。

今日はそんな話。

■今あるお金を、死に際のカレーライスに変えておく

突然だが、僕の貯金額は少ない。

同じくらい給与をもらっている同僚には、いつも驚かれる。

ただ、貯金はないが、不安もない。

カレーライス貯金をしているから「お金がなくなっても死にはしない」と、たかを括っている。


(さて、どこから説明しよう)


まず、僕は飲みに行くのが好きだ。今は自粛中だが、以前は友人や後輩、パートナーたちとほぼ毎晩飲み歩いていた。

そして楽しくなってご馳走したり、必要以上に多めに出してしまう。

時には店主やスタッフにも「1杯飲んでください」なんて、お酒を奢ったりする。

そりゃお金もなくなるわけだ。

ただ、お金を失っているとは思っていない。
お金を別の形に変えて貯めているだけだ。

例えば、お会計の場面ではこんなことを言う。

「今日は出しておくので、僕が死にそうになっていたら、カレーライスを奢ってください」

すると大抵の人は財布を締まってくれる。

帰り道では「お互いどんな死に方になるかなぁ」なんて話をしながら帰る。

これがカレーライス貯金だ。

一時的にお金は払うが、それは今のお金を死に際のカレーライスに変換しているだけで、お金を捨てているわけではない。

もし僕が本当に飢え死にしそうになって、その時にカレーライスをご馳走になったら、どんなに嬉しいだろう。どんなに有難いだろう。それは僕がご馳走するご飯代なんかより、よっぽど価値が高いはずだ。

だから僕はお金の代わりに、死に際のカレーライスを貯めている。

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正確に言えば「困った時にカレーライスをご馳走してくれる人」を貯めている。

それは、冒頭の父の教えに近いのかもしれない。

■資産の本質と、ギブ&ギブの精神

「これからは貯金じゃなくて、貯信だ」と、信用を貯めるという考え方を最近よく聞く。そこで貨幣経済はどこへ向かうのか、なんて話を僕のカレーライス貯金から考えてみる。

例えば、同じくらいの給与をもらっている同僚たちは、稼いだお金で不動産や株、外貨などを買っている。

要するに、今のお金を「困った時の安心材料」に変えている。

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僕のカレーライスも本質は同じだ。困った時にカレーライス1杯でいいから、ご馳走してくれる人がいる。それが僕にとって生きる上での安心材料だ。

不動産を持っているより、株を持っているより、僕はその方が安心する

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この安心感を与えてくれる存在が、人や時代によって変わるのではないだろうか。

もし時代が貯金から貯信へと傾いているとしたら、僕のカレーライス貯金もそんな変化の兆しだ。

これまでは不動産や株など、お金に準じる存在が資産とされてきた。しかし本当に貨幣経済が根底が揺らいでいるとしたら、何が資産になるかも変わる。

もし生きる上での安心材料が資産の本質概念だとしたら、これからの資産は「困った時に助けてくれる人」になるかもしれない。

問われているのは「自分に余裕がある時に、それを独占しようとせず、どれだけ他人に分け与えることをしてきたか」というギブの精神。

ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブの考え方が、これからの資産を生むポイントかもしれない。

そういった意味では、僕はまだカレーライスという見返りを求めている分、器が小さい。

でもそんな「いつかのカレーライス」を楽しみに生きているところもある。


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