自分は「Z世代の代弁者」ではない。
「代弁」っていう言葉、本当に意味がないと思う。編集者が好んで「Z世代を代弁」「女性の気持ちを代弁」とか使いがちだけど、正直そんな「代弁者」という気持ちで生きている人なんて少ないと思う。
「代わりになって発言したい」と思ってる人なんてほぼいなくて、単に「言わなきゃいけない必要性があるから」言ってるだけのことの方が多い。むしろ「代弁者」と呼ばれる人は「石を投げられる対象」でしかないし、受動的に「誰かが代弁してくれる」という気持ちを他者が持って生きてほしいとも思わない。
得に、何度かいろんな媒体で訂正入れているけれど、「Z世代を代表」っていう言い方は自分に対しても、他の人に対しても使いたくないし、使って欲しくない。自称してる人ならいいけど、勝手に言うの本当にやめて欲しいと強く思う。
『世界と私のA to Z』でも、「多様な価値観が存在することこそが「Z世代らしさ」であるにもかかわらず、「Z世代を代表する意見」というものを欲しがるのは、あまりにも矛盾しすぎている。」とはっきりと書いている。
一方で、「Z世代」を自称することには、様々な理由がある。そもそも世代の括られ方が日本とアメリカではシステムが異なり、アメリカでは10〜15年ほどのスパンで連続的に新たな世代が命名されるのに対して、日本は「氷河期世代」「ゆとり世代」など、何かしらの社会的影響を受けた世代が括られがちであり、連続的ではない。
アメリカのZ世代は、ブーマー世代のように裕福になれないし、社会も崩れゆく一方。いつロックダウンになるかも、大不況になるかも、銃撃で死ぬかもわからない。お先は真っ暗。しかし子供の頃から絶望を抱える苦しさを、大人は理解できるはずがない。アメリカのZ世代が"Gen Z"という自称を掲げるのには、そういう理由がある。
「もう全てどうでもいい」というニヒリズムと、「今すぐ社会を変えなければ」という活力が「絶望」の中で混在する。「nothing matters」という無力さと、「we can make change」という団結力と変化を起こせる手応えが渦巻くその矛盾の自覚があるからこそ、Z世代は不可解に見えるのかもしれない。
さらに、本の中でも書いているが、「アメリカのZ世代はこんなにすごいのに日本のZ世代はダメ」なんていう大人がいけないのであって、自分がやろうとしていることはそれじゃない。「最後に」に書いたように、「価値観」の話を伝えたいのであって、世代を構成する「個人」の話ではない。
さらに言えば、「Z世代という言葉を使う人は信用できない」なんていう言説もよく見るが、自分からしたら風評被害だ。もともと信用できない人が「Z世代」という形だけの言葉を輸入して日本の若者にくっつけてモノを売ったりしてるだけで、その日本のZ世代がどういう社会的状況に置かれてこうなってるのかの論説はない。
このようなことを念頭に置きながら、次回作にも期待していてください。