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みんなちがってみんないい? 〜偶然と意志でゆれるダイバーシティの舟

こんばんは、uni'que若宮です。

コロナ禍に加え、家の事情もあり色々と環境がかわり、生き方や働き方も問い直しているここ半年です。先日ジェンダーギャップについて書いた記事も沢山の方に読んでいただいたのですが、今日はダイバーシティに関してちょっと書きたいと思います。

「障害」と「バリア」

先日、奥田浩美さんが主催する「破壊の学校」という、全国の各地を旅しつつその土地の(観光地的ではない)リアルな現状に立ち会い、学び、自分を振り返る、というリカレント&リトリートな学びの場に参加しました。

初回の鹿児島県肝付町の回に参加者として参加し、価値観を揺さぶられたのですが、今回は地元青森の回のホスト側になりプログラムを企画しました。(青森を旅する予定でしたがコロナ禍のため「1泊2日のオンライン合宿」という謎方式)

「破壊の学校 in 青森」のテーマは「バリア」でした。

青森の企画メンバーに発達障害や貧困家庭のサポートをしているメンバーが多かったこともあり、障害や経済格差、コロナ禍による分断など、さまざまな意味合いを含めて「バリア」をテーマにしました。

2日間のツアーは青森県内の拠点やご家庭とZoomでつないで中継&オンラインのワークショップで構成したのですが、その中のひと枠として参加者それぞれの「バリア」について考えるワークをつくりました。

「バリア・ワークショップ」で伝えたかったこと

ワークショップでは最初に参加者に4つの質問をし、書き出してもらいました。

①ついやりすぎてしまうこと、もしくは謎の趣味
②直せないこと、あるいはコンプレックス
③あなたの「障害」に関して社会がもっとこうだったら楽なのに、と思うこと
④こうあらねばと思っているマイルール、もしくはずっと大事に積み重ねてきたこと

最初の2つの質問は個人それぞれの「障害」をあぶり出すためのもの。ちなみに「障害」と辞書で引くとこうあります。

僕らは「障害」という言葉を口にする時、それを普通「健常」との対比で考え「障害者」と「健常者」とを線引きします。しかし「障害」は特殊なことではなく、僕らはそれぞれに何らかの「いびつさ」をもって生きています。たとえば人の顔が覚えられない、約束を飛ばす、異常に片付けができない。僕がだらしないだけと思われるかもしれませんが、努力してもどうしても治らない。程度の差はあれこういうのもいわば「個人的な原因」による「障害」だと言えるのではないでしょうか。

こういう個人の「障害」を考えた後、③の質問で「社会の側」の「障害」について考えます。定義に「社会的な環境により」とあったように、社会には生活を阻むさまざまな障害がある。わかりやすいのは車椅子の方にとっての「段差」ですが、このように「障害」というのは個人の側にではなく社会の側にあります。「バリアフリー」というようにそれは「バリア」なのです。

生活を妨げるさまざまな障壁、それがバリアです。ジェンダーギャップや人種差別、経済的分断、コロナ禍ーーいまなおさまざまな「社会のバリア」があります

そして最後の質問は「自分のバリア」に気づくための質問です。「バリア」は邪魔するだけではありません。子供の頃のヒーローごっこや鬼ごっこで「バリアーーーー!!」と叫んだことがあるかもしれませんが、「バリア」は自分を守るためのものでもあるのです。

ただ、そうして自分を守るために張った「バリア」が、自分を縛るものになってしまうことがある。自ら周りに築いた城壁に閉じ込められるように踏み出そうとする時それは「障壁」に変わる。

たとえば学歴や世間体、マナーやルール。身を守るものや自信の拠り所、それがいつしか踏み外せないしがらみにもなりえる。そういう「バリア」を解いて「手放す」ことができると楽になります。

アート思考の核にあるのも「いびつな自分」です。個のいびつさがそれぞれのユニークな価値の源泉になるのです。

しかし、「いびつな自分」は社会や会社ではなかなか生きづらいし、生かされづらい現実があります。

上の図にあるように「平均」や「普通」や「正しさ(正常、健常)」との比較において「障害」はつくられます。自分のいびつな「①はみ出し」や「②へこみ」、「③社会との抵触」、そして「④自身の殻から生まれるのです。

ワークを通じ参加者に振り返ってほしかったこと、伝えたかったことは以下です。

・「障害」は特別なものではなく、自分たちもいびつさをもっていて、誰もがなんらかの障害者である
・いびつさそのものより、それにフィットしていない社会の側に「障害」そして「バリア」がある
・「バリア」は防衛のためにつくられる。バリアを解くことも大事

伝える上で悩んだこと

しかし一方でこのワークを作っている時、ちょっと危うさも感じて悩みました。1つは「障害」の問題を矮小化してはしまわないかということ。

「障害」を「誰かの問題」ではなく「自分の問題」として地続きにするために自分のいびつさも「障害」と呼び、あえて「誰もがなんらかの障害者」と言いましたが、そのことがいま障害をもつ人たちの苦しみを軽視してしまうことはないか。

マジョリティ側の人が本当には痛みを理解しようとせずマイノリティの人の気持ちを踏みにじってしまうことはよくある。障害をもつ方からしたら「健常者」の側のこういう物言いは、知らないくせに「あー、わかるー」と言う軽い態度のようで嫌かもしれない。悩みましたが、他人事ではなく考えるきっかけとして今回の形にしました。多分参加者には、そういう葛藤ごと伝わったのではないかと思う。

また「バリア」についてもミスリードのリスクがありました。それは「なんでもかんでもバリアをなくせばいい」という短絡的論理に聞こえないか、ということ。

ワークでもなるべく丁寧に伝えたが、「バリア」=悪という簡単な話ではないのです。みんなが自分のいびつさの正当性を主張したら社会はぐちゃぐちゃになってしまう。誰かにとってのバリアは別の誰かに最適化された結果だし、ある時期に自分を守るためには「自分のバリア」も必要です。「障害」や「バリア」にはいい/悪いに回収できない葛藤が含まれている。以前こちらの記事でも書いたのですが

この作品のテーマもまさに「バリア」だったように思います。

チームが作品に込めたかったのは「ダイバーシティのために全てを受け入れよう」という”善いメッセージ”ではなく、「ダイバーシティを本気で考えると、同時にある種の分離や区別のことを考えなければならない」という葛藤そのものでした。

「偶然」と「意志」

「障害」や「バリア」に関してもう一つ重要なことは、それが「偶然」であるということです。

以前奥田さんのブログでも紹介されていたこちらの動画。ぜひみてください。

僕がこれをみて以来考えるようになったことは、格差の不公平さとそれがいかに「ただの偶然」か、ということです。

僕はいま起業して、いわゆるスタートアップ業界にいますが、ときどきそこで言われる「成功」という言葉と、その「成功」がひとの「実力」や「努力」に還元され、「成功者」ともてはやされることに違和感を感じることがあります。

「障害」や社会的・経済的なさまざまな「バリア」、それが生む「格差」は、本人の「実力」や「努力」によるものではありません。自分がたまたま五体満足で生まれたこと、死の危険のない日本に生まれたこと、両親が揃っていること、大学に行くだけの経済的余裕があったこと、そいうものの上に「成功」は圧倒的に不公平に依拠している。そしてそれはほとんど”まったくの偶然の結果”です。

こうした不公平は、必ずしもどちらかが有利で他方が不利とも限りません。「育ちの良い家庭」に生まれたために抱えるバリアもあるし、学歴のせいで降りられなくなるレールもあります。自分が恵まれた育ちであることに後ろめたさを感じ苦しむひともいる。でもそれだってただの偶然なのです。

しかし日本人はどうもそれを本人の責任と考えがちな傾向があるように思います。でも事故や病気などでいつ自分が「障害者」の側になるかわからないのです。実力や努力とは全く関係なく。

今はたまたまバリアのこちら側にいるかもしれないけど、その向こうにいるのはもしかしたら僕だったかもしれないのです。

知ろうとすることはぐらぐらすること

人は自分がいるバリアの内側にしか目を向けず、「不都合な真実」からは目をそらしがちです。

そして不安定で不安な状態を避け、楽になるために、しばしば

・安易に美化したり、
・差異を捨象してひとまとめにしてしまったり、
・比較して優位に立とうとしてしまったり、

してしまいます。

月経のつらさを「個性」と呼んでポジティブにかえたい、というのはわかるけど、安易に美化すると本当の理解を妨げてしまう。個人の差異に目を向けず「これだから〇〇人は」などとレッテルを貼ってしまう。あるいは人を貶めてマウントを取る。

ひとがdiverseなのは「偶然」だし、「障害」や「バリア」があるのもある種自然なことだけれど、それに慣れてしまい、その事実から目をそらしてしまう。ちゃんと知ることは「ぐらぐら」することで、だからダイバーシティのためには知ろうとする「意志」が必要なのだ。

もとは素敵な言葉だとおもうけれど、僕は「みんなちがってみんないい」という言葉が実はあまり好きではありません

社会にはたくさんの不公平とバリアがあり、それぞれの「障害」はぶつかり軋みつづけていて、最適解が見つかる見込みはなさそうに見えます。いや、むしろそれはますますひどくなっているようにすら思えます。簡単に「いい」といってしまえるようなものじゃないと思うのです。

みんなちがって(だからこそ大変で、なんとかバランスをとってやっていこうとしてもぶつかるけど、でもそれは誰かのせいでもないから)、みんな(のありのままをぐらぐらしながらでもちゃんと見ようとしたほうが)、いい

これぐらいの葛藤がある感じなんじゃないだろうか。

理想でもキレイに「割り切れる」ものでもない。僕はそういう葛藤をずっとかかえながら努力をしていくところが人間って好きです。そしてそういう葛藤こそが「愛」なんじゃないかっておもうのです。

相手に欠点がないように思われ、
何もかもうまくゆくのだったら、
その人とつきあうことは当然であり、
利己的に言っても価値のあることだから、
別に愛などという必要はないかもしれない。
欠点のある人-誰しも欠点を持っているのだが-と、
自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、
愛があるのではないだろうか。
(河合隼雄)

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