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「”仕事”=生存+自己実現」と考えたときの、仕事の守りかた


100年以上の歴史を誇る伝統的な日本企業であり、一時は一世を風靡した名門企業であるレナウンが倒産した。


倒産した理由は、新型コロナウイルス(COVID-19)の影響が直接の引き金にはなっているようだが、実際には、平成に入ってからも、全盛期だったバブルまでの時代のビジネスモデルを変えず、いわば古いスタイルの仕事を守ってきたことによるようだ。この意味での「仕事」は、守ったところで、結果は行き詰まるということを、この倒産劇が物語っている。


では、守るべき「仕事」、守るに値する「仕事」とは何だろうか。

この意味で私たちが守るべき仕事は、普遍的に「変わらないもの」だ。第1にそれは、人間である以上、食べていくこと。食べていけなければ始まらないのである。そのうえで、2つ目は、自分なりの役割を果たすこと。これは自己実現と言い換えてもいいのかもしれない。

これらの2つを”仕事”と言うのであれば、これらこそが守るべき「私たちの”仕事”」である。(以下、私が守るべきと考える仕事は、”仕事”と書く)どの会社にいてどんな役職についているか、とか、給料がいくらであるか、ということは、生存(生命維持)条件には直接関係がなく、自己実現には関係するかもしれないが、会社を辞めてしまえば過去のことになってしまうのだとすれば、生涯・人生というスパンでみたときに自己実現と言えない場合もあるだろう。

1つ目の食べていくことに関しては、人間が動物・生物である以上、食べていかなければ生命を維持していけないことは当然の事だ。現代においては「食べていく」とは、仕事をしてお金を稼ぐ、という意味でも使われている。しかし、お金がなければ食べていけないのかと言うとそんなことはない。1つには端的に食料を生産をすることである。農業が一番わかりやすいが、直接農業を営まなくても、例えば自分が副業として農作業を手伝うことによってその報酬として(出来上がった)作物をもらう、ということだってあり得るだろう。

人手不足で農業の作付けが出来ないとなると、自分とその家族だけの問題ではなく社会全体の問題になると思い、この春農作業の人手が足りないところがあれば、お手伝いに行けないかと考えていくつかあたってみたのだが、移動をすることによる感染拡大のリスクもあり、今回は断念した。実際に、欧州などでは、農作業を担う人手の不足と、それに伴う食糧不足の懸念が起きているようだ。これは生存の問題、生命維持の問題なのだ。

都会に住んでいると、お金なしに食べ物を得るようなことはできないと思うかもしれないが、例えば、東京の「未来食堂」という食堂では、お店の手伝いをすることによって、一定の条件を満たすと一食無料で食べることができる。

労働の対価を得て食べていく、ということは一般的な仕事と共通するのだが、そこに必ず貨幣が媒介物として入らなければならない、ということはない。こうして、お金だけにこだわらず、自分が文字通り「食べていく」という、人間にとって基礎的な生存の条件を満たすこと。それもまた、「自分の”仕事”を守る」ということになるだろう。

もう1つは、自己実現という観点である。この緊急事態宣言の下で、基本的には私もStay Homeを守っているが、学生時代のアルバイト経験に端を発して、いわゆるエッセンシャルワーカーとしての仕事もしている。医療関係者などではない、その気になればほとんどの人がやれるであろう仕事だ。

エッセンシャルワークに出る時だけは、電車に乗って仕事場に入る。感染の危険がないとはいえないが、幸い「三密」のような状態にはならない(なりにくい)し、危険性でいうとスーパー等に食料の買い出しに行くのと同程度だろうか。こんなご時世でもあり、仕事で遠方に行くことが出来なくなり、その関連の仕事が減った分、空いた時間で何か小さなことでも人の役に立つと実感出来ることをやっていたい、という気持ちで続けているのだが、実際には、自分が役に立っているという感覚よりも、同様にエッセンシャルワーカーとして働く人々の姿を見て感動したり、またそうした人からの小さいとししても温かい気遣いに嬉しい気持ちになったり、Stay Homeで運動不足が続く中、多少なりとも身体を動かす機会を得るといった、単に労働の対価としてもらうお金だけでは測れない価値・効用があると感じている。それは、自己実現とそれに伴うリターンとも言え、私にとっては、これもまた「守るべき”仕事”」なのだ。

一般的には、仕事と言うと自分が「本業」としてやっている仕事、勤めている会社の仕事を指し、「仕事を守る」というと、そこからもらっている報酬や給料を守る、という発想になりがちだと思う。

しかし、少し発想を変え、改めて「仕事」という言葉のおおもとの意味あいを探っていくと、違う風景が見えるのではないかと思うし、今のこの状況の中での「”仕事”の守り方」も見えてくるのではないだろうか。

そうすれば、生命を維持し自己実現を果たすことの先に、ささやかではあるけれど、楽しみとか喜びといったものも、”仕事”のなかに見えることがあるのではないかと思うし、私たち人間の祖先は、そうしてこれまで生き延びてきたのかもしれない、という気にもさせられるのだ。


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