マウンティングはこの世からなくならないーでは、どうする?
「他人の自慢話を聞くのが好き!」という人は、そんなに多くないでしょう。でも、「他人の自慢話をその人の心理分析に使うよ」と語る人は少なくないかも、です。それも自慢げに 笑。
ぼくはまだ読んでいませんが、「人生が整うマウンティング大全」という本があるそうです。
マウントが人間模様としておかしいのは、「本人がマウントをとるつもりの場合」、「本人はマウントをとっているつもりがまったくないのに受け手がマウントととる場合」の二通りが絡み合っているところです。
例えば、上記の3つをマウントと受け止めるか、単なる事実を述べているだけととるか、これは完全に受け手の解釈に依存しています。
「ニューヨークに出張する予定で同窓会に出られない」と話すとマウントととられるからと予防線をはり、それをあえて隠す方がよっぽど嫌らしい・・・。つまり、何も意識せずに話し、結果として「あいつ、マウントをとってやがる」と言われるくらいの方が愛されるかもしれないですね。
ドル建てマウントを「日本の将来を憂う言葉などで締めくくったりするのがポイントだ」という事例、確かによくみかけます。
ただ、どうもこの本の著者は、なにも「人類からマウントをなくそう!」と訴えているのではなさそう。次の部分が言いたいところなのでしょう。「マウントにムキになるな」、「相手の欲していることの表現と受け止めろ」ということですね。
営業の得意な人は、こういうのをよく心得ています。相手をのせて気持ちよく何かを買ってもらったり、契約書にサインしてもらったりするわけです。極論すれば、世の中に一切自慢をしない人なんか存在しないので、その現実をよく見て動こうね、ということになります。以下、太字にした部分など、実際のビジネスへの適用を促しています。
言ってみれば、マウントをネタにギスギスするのはやめよう、との呼びかけにもみえますね。その意味でとてもオポチュニストな印象を受けます。繰り返しますが、まだ読んでいない本ですが・・・。
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この本の記事に目が止まったのは、旧ラグジュアリーについて言及されるときに、ほぼ必ずといってよいほどにマウンティングが絡んでくるからです。経済的・社会的に優位なことを他人に示したい、そのためにラグジュアリーという領域が拡大してきた、と。
このマウンティングが世の中からなくなることはないように、自慢のためのラグジュアリーもなくならないでしょう。
しかし、ラグジュアリーはマウンティングだけではなく、文化創造という側面もあり、その部分をもっと生かしていこうと主張しているのが、服飾史研究家の中野香織さんと書いた『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』です。
ある方によれば、この新・ラグジュアリーは「意識高い系」というカテゴリーに入るらしいですが、これもマウンティングの話に近いなあ、と思いました。
いずれにせよ、ラグジュアリーがこの世からなくならないものである限り、そこを深く掘り下げるとビジネスも、社会・文化創造も新たな挑戦ができると考えています。6月15日からオンライン講座の4回目をスタートさせます。関心のある方はどうぞ!質問あれば遠慮なくコンタクトください。
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冒頭の写真はミラノデザインウィーク中にみたギャラリーでのインスタレーションです。かつて、このような光は商業空間向けとされていましたが、じょじょに居住空間にも使われはじめています。