昨日の日経新聞朝刊(13面)に出ていた「韓国の高炉、停止の危機」のニュース。お隣の国の話だからと、気にも止めなかった方も多いかもしれません。しかしながら読んでみると、わが国にとっても非常に学びの多い事例です。記事を読むというより、この記事から「規制のあり方」について考えてみたいと思います。

記事が伝える内容をかいつまんで見てみると、韓国鉄鋼大手の高炉が同国の「大気環境保全法」違反を指摘され、10日間の操業停止処分を受ける事例が続いているというものです。なぜそんな操業停止処分が出されるに至ったかと言えば、同法では、高炉など大気汚染物質を出す設備を稼働するには汚染防止設備を併用しなければならないことを定めているのに、定期点検の際に、集塵装置の無いブリーダー弁という安全バルブを開いて圧力を調整したことが法令違反とみなされたとのこと。企業側は処分取り消しを求めて訴訟も辞さない構えだといいます。

高炉のトップ部分にあるブリーダー弁というのは、圧力逃し弁の役割を果たすもので、世界中同じ構造であってそこに集塵装置などがついているというのは無いそうです。

実際にこの法律に対して違反があったかと言えばあったのでしょう。「悪法も法なり」ですから、法律違反があったのなら法に定める処分がされるのも当然です。ただ、規制は何のためかを考えれば、他の国では当然に認められているものを韓国でだけやめさせることで何かメリットがあるのか、本当に停止しなければならないほど環境負荷が大きい行為なのか、停止させることによる経済損失はどれくらいなのか。いろいろ考えるべきことがあるはずです。

「10日くらいの操業停止であればいいではないか」と思われるかもしれませんが、高炉というのは動かし続けないといけない設備で、記事でも「仮に停止すると炉内で溶けた銑鉄(せんてつ)が固まってしまい、再開にはその銑鉄を爆破するなどして取り除く必要がある」「再開には3-6か月かかる(韓国鉄鋼協会)」としています。

こう考えると、その規制の運用は本当に正しいですか?という気になりますよね。そして、規制というものが産業を生かしも殺しもしてしまうことを改めて実感します。「規制」というと、関係する企業の人たちにとっては大変だろうけど、基本的に消費者には関係ないと思いがちですが、消費者の生活から経済から、すべてに大きな影響を与えうるものです。

下記にお勧めする「シンプルな政府 ”規制”をいかにデザインするか」(キャス・サスティーン著)では、規制の費用対効果分析と民主主義政府は補完関係にあると書いています。規制のあり方を考えることは、政府の役割を考えることであり、それはすなわち、我々はどんな社会を望むかということでもあるのでしょう。米国では長く、規制が「受け入れがたく不合理な負担を社会に負わせる」ことを厳に戒めており、規制による費用とそれにより国民が受ける便益を徹底して分析することが規制当局には求められています。

わが国では特に、環境や安全に関わる規制は「とりあえず」「念のため」「海外では」で「足し算」を正当化されがちです。私が関係する範囲で言えば、福島事故後の原子力規制では、特にそれが顕著です。それが本当に国民利益につながっているのか。輻輳化・多層化し過ぎた安全対策で「滑稽な安全の姿」に陥っていないか。考えさせられることが多々あります。(念のためですが、安全を疎かにして良いといっている訳ではありません。規制に何を求めるかの議論です)。多くの分野でこうしたことが生じており、ひいては日本の国民が意味のない負担をしていたり、活性化しない社会にしてしまっていたりとネガティブな影響が出ているのではないかと懸念しています。

改めて、政府とは、規制とはどうあるべきかを議論すべきであると思います。


#COMEMO #NIKKEI

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