「中古」と「ヴィンテージ」の間にあるものーー「新品」の地位低下?
サステナビリティのある社会を実現するにはトレイサビリティが要求され、それがあってこそ循環経済が成立するーーーといった議論がそこかしこでされています。そこかしこ、というのは世界各地ということですね。
そうすると、これまでの世界で日陰であった存在に脚光が浴びてきます。そんなことを、この記事を読みがら、ふと考えました。
例えば、産業廃棄物処理業者とかクルマの中古屋などは、新品を扱う業者とは一線を画されてきたところがあります。「画されてきた」というのは、自らが望んでいたわけでなくても、新品の世界の人から偏見を持ってみられがちであった、ということです。だが、この図式に変化がでてきています。
ただ、もともと、古いものを扱うから「一律に下に見られる」というわけでもありませんでした。分野によって異なります。
1400年代のルネサンス期の絵画は逆により価値のあるものにみられ、そうした絵画を扱うクリスティーズやサザビーズのようなオークションハウスは、「上の階級」として振る舞うのです。
また、20世紀前半のクルマと20世紀末の大量生産のクルマを比較すると、前者の値段が高いだけでなく、そのクルマを商材として扱う人たちの意識やプライドにも差があります。
分野だけの問題ではないです。地域文化という要素もあります。
日本で20世紀前半の家屋にはあまり経済的な価値が認められませんが、欧州においては同時期の建物の方が後半期のそれよりも値がつきます。よって、欧州の建築家の多くの仕事は、建物とその周辺の歴史を調べ、今の時代に自分がする仕事の意味を考えるのです。時代を繋いでいくためのピース、残していくべきピースとの見地を大切にするのが素養になります。
いずれにせよ、「単なる中古」「アンティーク」「ヴィンテージ」「新品」の関係は常に変化をしています。最近のよく話題になるのが、ファッションですね。「古着」が「ヴィンテージ」になる。「お母さんやお祖母さんが着ていたシャネルのスーツ」が若い子の間で有難がれる現象は、ヴィンテージへの移行によります。
この20数年間、イタリアのデザイン家具や雑貨のヴィンテージ市場をみていても、いくつか気がつくことがあります。
ミッドセンチュリーといわれる20世紀半ばの家具を扱う人たちの様子が変わってきています。20年以上前だと店や倉庫に行くと、昼間から酒を飲んだ赤ら顔のオーナーがでてきて、明らかに値付けの仕方がいいかげんというシーンによく出会いました。
でも、今は大学でデザインや建築を勉強してよく歴史を知っている人が、ちょっとギャラリーの学芸員のように振る舞ったりします。彼らもオークションハウスと付き合うに、それなりの説明ができないと商売にならないのでしょう。
一方で、かつて気取っていた人たちが、そう余裕をかましていられなくなったのが、19世紀から20世紀前半の家具を扱っている人たちです。どこかの邸宅にあったクラシックな内装をかたちづくるものが、あまりに放出され過ぎ、ややたたき売りの感をもつこともあるからです。
前述のことから言えるのは、これまでの「中古」は主に経済的な価値という面で、「ヴィンテージ」の後塵を拝することになっていました。文化的な価値がヴィンテージというカテゴリーへの入門を許し、それによって、まったく異なる次元の存在として経済的有利さを享受するという構図である。逆に「中古」は経済的理由だけで売買されるわけです。
ーー しかしながら、循環経済は、これまでのロジックをまったく覆しているところで成立します。歴史や文化的な価値があるから、「古くても良い」「古いから良い」ではなく(当然、今後もこの回路がなくなるわけではない)、「何度も何度も再生されてきているから安心」というロジックへの転換です。
「再生紙を使った名刺」とか以前からありますから、何もつい最近に生まれたロジックではないです。しかし、今、立ち向かっている世界が新しいのは、「中古」「アンティーク」「ヴィンテージ」「新品」が一緒になってロジックをつくろうとしているからです。
「中古の名刺」や「ヴィンテージの名刺」なんてなかったですよね?
写真©Ken Anzai