泳げデータの世紀:「データの世紀」時代の泳法を、考えてみよう。
皆さんは、「データの世紀」という、調査報道を読まれただろうか。この記事は、現代においてはデータが、「新たな石油」と紹介されているように、データの重要性について、丁寧に説明されています。あわせてそのデータ活用が起こしている、新しい問題についても、わかりやすく教えてくれています。まだ、読んでいない方は、ぜひ最初から、最後まで読み進めて欲しい。データマーケティングや、産学連携の科学を行っている私にとっても、実に多くの気づきがあり、整理もできる。
データマーケティングとは、マスマーケティング崩壊後の、顧客に寄り添うマーケティングのために選択するマーケティングで、さまざまなデータを活用したいと考えています。例えば、顧客のデータについては、お客様のライフステージの変更を、購買履歴から予測し、お客様に相応しい商品やサービスを、お客さが検討する前に、提案できないかと考えています。また、そのエリアの気象データや、観光客のデータなども活用して、より確立の高いマーケティングを行いたいと考えています。
また、数学を含む科学の領域でも、今までは自然科学の中心に科学を応用してきましたが、社会からさまざまなデータが取れることから、社会現象にも科学が応用できるのではないかと考え、積極的に取り組んでいます。例えば、twitterの記事の件数から、話題の予兆を観測できないかとかです。今までは、データが取りにくかった社会現象が、IoTの普及や、新たなにデータが取得できることになったので、科学の対象になってきたのです。
このように、「データの世紀」では、実務においても、科学の領域においても、さま座な進化、成長があります。私は、この「データの世紀」から、逃れるのではなく、軽やかに「泳ぐぎ」、実務や科学の進化を進めるべきではないかと考えています。
しかし、「データの世紀」は始まったばかりで、まだ整理できていない課題も多く存在します。そして、私たちが「データの世紀」を「泳ぐ」ためには、私たちの「泳ぎ方」を新しいものに変える必要があるかもかもしれません。
「データの世紀」の問題は、昔からもあった
これから、数回に渡って「データの世紀」の「泳ぎ方」について、考えていきたいと思います。今回は、各論に入らずに、少し俯瞰的にこの「データの世紀」という言葉の出現理由、背景を考えてみます。「データの世紀」、つまりデータが現在の事業や国家戦略に重要なことは事実でしょうし、多くの読者の方も否定しないでしょう。しかし、データが過去になかったのかといえば、そうではありません。人の営みは、人の歴史がスタートしてから変わっていません。「風邪」という病気を人類が認知してから、体温というデータは存在したでしょうし、商売では帳簿というデータが過去から存在していました。
江戸時代の町家の落語では、近所の人の噂というデータの存在もありますし、近所の人は、今まで以上に名前で呼び合っていたのでしょう。つまり、以前にもデータは存在していました。特に、この「データの世紀」で何度か触れられている「個人情報」については、過去にも存在しており、その権利が確立していない時代もありました。今は、個人情報についての「権利」が整理され始め、丁寧に取り扱いをしているだけで、活用方法は過去から変わっていないのかもしれません。
なぜか、役所では今でも「名前」で呼ばれます。「マイナンバー」というそれ自身は意味のない番号を国民に発行した今でも。今は、「名前」の方が、「マイナンバー」よりも個人を特定しやいと思います。なのに、公共の場所で、その名前が叫ばれるのです。
実は、「データの世紀」では、データの高度な活用に、話題が多く及びますが、実はどのデータを使うかも重要な論点なのかもしれません。自治体では、住人の人口が注目されますが、本当は労働者の人口の方に意味があるかもしれません。いや、納税者の人口と、非納税者の人口比率が重要かもしれません。
このように、実はどのデータを見る、これも「データの世紀」の重要な論点です。これは、個人でも議論できることで、身近な問題です。つまり、「データの世紀」の議論は、全ての生活者、市民、国民に関係のある議論だと思うのです。ぜひ、「データの世紀」を一緒に考えてみませんか。